ここで言われています、「受け入れる」という言葉は、現代の日本ではほとんど使わない言葉です。その元々の意味は、「(その
人を客として)迎える、歓迎する」という意味です。私たちが神の子とされるのは、「信仰が深い」からでもなく、「行いが正しい」
からでもないのです。主イエスは、「私は、私達の信仰が深くないのも、行いが正しくないのも良く知っている」。けれども、
「それ故には、私はあなた達を裁きはしない」と仰っておられるのです。
ここでは、「極めて単純なこと(弟子を受け入れること)」だけが問題にされているのです。ここでは、「信じること」さえ要求され
ておりません。ただ「主の弟子たちを受け入れる(歓迎する)こと」だけが要求されているのです。それは、しかも「主イエスを受け
入れる」ということでは、ないのです。私達は、イエスと言う人を、現代において、簡単に受け入れることができますか、生まれつき
目の見えない人を、いとも簡単に、その目を開けられたというような事を、しかも、私達の眼には今はもう見えない人を、受け入れる
ことができますか。けれども、主イエスの弟子であれば、私達は比較的受け入れやすいのではないでしょうか。
実は、この主イエスの弟子達と言うのは、教会の中の牧師・伝道者だけではなく、主イエスの後の時代の教会等の巡回伝道者のことが
考えられているのです。「主イエスの弟子たちを受け入れる者は、主イエス御自身を受け入れるのであり、主イエスを受け入れる者は、
神様御自身を受け入れるのだ」という、一連のつながりです。ですから、私たちに求められていますのは、「主イエスの弟子たちを、
まず受け入れること」だけです。つまり「まず、主イエスの弟子たちを受け入れるならば、主イエスを受け入れるようになり、父なる
神を受け入れ、信じるようになる」と“保証”して下さっているのです。《イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。
私を通らなければ、誰も父のみもとに行くことはできない。」》(ヨハネ14:6) この主イエス・キリストのみ言葉は、この事をも言っ
ておられるのではないでしょうか。
また、「主イエスの弟子達」とはキリスト後2000年経っている現在は、誰のことを言っているのでしょうか。それは、御言葉を人々に、
取り次ぐ「牧師」であり、「伝道者」なのです。その意味で、「牧師」・「伝道者」の使命は「重大」です。けれども、私ども牧者は
その責任の重大さに慄きはしません。なぜなら、神様が約束されたように、御言葉を取り運ぶ者には、「聖霊が豊かに注がれ、そのこと
を可能にしてくださる」からです。