10節前半では、「兄弟愛」が述べられています。私達は、「兄弟愛をもって、互いに愛し合いなさい」と勧められています。
「兄弟愛」はいわゆる「博愛」とは異なります。「広く、平等に人を愛する」というのが、「博愛」でしょうが、私達の言う
「兄弟愛」は“イエス・キリストを通して”の兄弟愛であり、“神の子としての兄弟愛”なのです。「博愛」には、「理念」
はありますが「根拠」がない。私達の兄弟愛はイエス・キリスト(神)から出ているのです。日本人だけでなく、世界全体で、
主イエスの時代までに、このような意味での「兄弟愛」は存在したことがありません。ですから、私達は、ユダヤ人であれ、
異邦人であれ、主人であれ、奴隷であれ、目上であれ、目下であれ、皆、互いに、等しく「兄弟愛」を持つことができるし、
持たなければならないのです。「兄弟愛」は日本人には、恐らく当初(明治初期)、理解できない、全く異質な「愛」であり
ました。現在、私達は「それほど貴重な、すばらしい愛」の中にいるのです。
10節後半では、「尊敬を持って、互いに相手を、優れた者と思いなさい」と勧められています。人は、単に「互いに愛する」
だけではなく、「互いに尊敬しなさい」と命じられているのです。この言葉も、通常の倫理をはるかに超えた要求です。
キリスト信徒どうしの兄弟愛は、「目上であれ、目下であれ、皆、互いに、等しく「兄弟愛」を持つことができるし、持たな
ければならない」のですが、だからと言って、「礼儀」を無視したものであってはならない、と言っているのです。「相手に
対する、『尊敬』という根本的な精神を失ってはならない」と言っているのです。これは、当然と言えばそれまでですが、
私達は見失い易いものです。日本人の間では、年上の者に対しては勿論ですが、年下の者に対してもぞんざいなものの言い方
をしないという「美しい習慣」があります。特に教会では、牧師や長老・執事・委員の人には、自分が年長者であっても、
丁寧な言い方をすることが、信頼関係を長く持続するためには、大切でしょう。「互いに相手を優れた者と思いなさい」と
言われていますが、事実、私達の伝道所でも、委員を始め多くの方々がそれぞれに、「神様からの優れた賜物」を与えられて、
素晴らしい奉仕をなさっているからこそ、伝道が今、進んでいるのです。心から感謝する者であります。
「兄弟愛」