「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をいだいて接吻した。」 (口語訳20節)

 

    ルカ福音書15 : 11 - 24   

 



 教師  武田 晨一 
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2021年2月

これは、聖書の中でも、とても有名な主イエスの「放蕩息子の譬」です。この譬には、二人の兄弟が登場します。そして弟の

方が、お父さんに自分の遺産相続分を要求します。父親の生きている間に相続分を貰い、遠い国へ旅立ってしまうようなことは

当時、異例でありました。彼は強引に自分の要求を押し通し、自分の相続分を先取りして父のもとを去り、自分の欲望を追い求

めて遠い国へ行ってしまったのです。そしてそこで身を持ち崩して財産を使い果たしてしまいました。ここには、私達罪人の本

質が描かれています。真の父なる神を離れて、自己を追求して行く人間の姿です。それは仕事やお金、物質中心の世界であるか

もしれません。何れにしろ 人間は神以外のものに心を動かされますと、必ずそれらの奴隷となってしまいます。お金の奴隷、仕

事の奴隷、欲望の奴隷に。

 さて、この息子が財産を使い果たした時に、激しい飢饉が襲ってきました。神から離れた生活には何時か、何処かで、必ず行

き詰まる時が来るのです。「飢饉」とは、自分の人生を自分の思いのままに、自分の欲望のままに生きる人間の行き着く末路を表

わしています。そして人間は、このような飢饉に直面しますと、初めて父なる神を思い起こすのです。死ぬしかない孤独と絶望

の中で、人間は自分を越えた神に助けを求めます。

 こうして放蕩息子は「本心に立ちかえり」(17節) 身近に父の心とその豊かさを思いました。アウグスチヌスはこう言ってい

ます。「神よ、私の魂は貴方によって造られているが故に、あなたを見出すまでは平安を得ません」と。

 そして、彼は悔改めの心をもって、父のところに帰ろうと歩み出しました。彼を父のもとに向かわせたのは、彼の力ではありま

せん。父の豊かさでした。

 お父さんは、息子がまだ遠く離れていて見えない位の所から、息子の小さな影を見つけて、急いで走り寄り、憐れに思い抱きし

めて接吻しました。そして最上の着物を着せて祝宴を開きました。この豊かな父の愛が、今、キリストの十字架を通して私たちの

中に注がれています。私達にとって大切なことは、この全く新しい出来事です。それは、悔改めを待っておられる 父なる神の方

から、走り寄って下さる真実な愛によって、古い自分が全く新しくされることです。「死んでいたのに生き返った」(32節) と言

われる、その父なる神の暖かい愛と、その豊かさの中に新しく生かされたいのです。




   




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