「いかに幸いなことか / 神に逆らう者の計らいに従って歩まず / 罪ある者の道にとどまらず /

        傲慢な者と共に座らず / 主の教えを愛し / その教えを昼も夜も口ずさむ人。」<1-2節>

 

 

    詩 編 1 : 1 – 6  

 



  教師  武田 晨一 
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2021年11月

 人生には色々な道があるように思います。しかし 人間が選び取る道は二つしかありません。一つは義人の道、もう一つが悪人の道です。現在 私たちは

意識する、しないに拘わらず そのどちらかを選び取って歩んでいます。そして ここでは、義人の道を断定的に示さず、「歩まず」「とどまらず」「座らず」

と きわめて控えめに 段階的に語っています。それは 人間にはこれが絶対だと言える判断基準はなく、全てが相対的だからです。つまり 私たちは 神を無視

して他のものに惑わされ、自分が神であるかのように錯覚し、傲慢になってしまうのです。ですから義人の道は、神に逆らう者に同調しないで、どの様な

時にも 神に従って行く厳しい道です。決して平坦な道ではありません。

 私たちキリスト者の現実は、右を見ても左を見ても 神を信じない人ばかりです。少しでも気を許すと つい妥協して ずるずるとその中に巻き込まれて

しまいます。この「歩まず」「とどまらず」「座らず」という動作は、そのような現実と戦って 勝ち取っていく信仰の決断、動作を示しています。この決断

に生きる人こそが「いかに幸いなことか」と感嘆詞をもって語られる人々です。「幸いなこと」とは裕福な生活を約束されることではありません。人間の

真実な幸いは 神の祝福に与かることなのです。

 ドイツ語にAufgabe という言葉がありますが、これは「賜物」と言う意味と共に課題と言う意味があります。つまり 人間は神に創造されて この世に

生きていること自体が 神の賜物で、これに感謝し、神の御心、課題を成し遂げて行くことが幸いです。神の御心は「主の教え」によって示されます。

「主の教え」は 旧約聖書では律法であり、今日の私たちにとっては聖書です。「流れのほとりに植えられた木。」とは、聖書の言に聞いて信じて生きる人

のことです。このような人が「ときが巡り来れば実を結ぶ」幸いな人生を送ることができるのです。一方、神に逆らい、神を無視して生きる悪人の道は

「風に吹き飛ばされるもみ殻」のようで、一陣の風が吹けば跡形もなく消え失せます。「もみ殻」はまた「くず」とも訳されます。更に「神に逆らう者は

裁きに堪え」ることができません。神に造られた人間は最後に必ず神の前に立って審判を受けます。死はその人の生涯の終りを決定づけます。そして、

その人が何であり、何に従って生きて来たかを問われる時です。一度限りの自分の人生、神から賜っている その使命、人生の目的に目覚め、祝福に満ちた

幸いな道を固く踏みしめて行きたいと思います











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