「 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。/あなたたちの息子や娘は預言をし/老人は夢を見、
若者は幻を見る。/その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」 (1-2節)
新しい年を、新しい志をもって生きるためには、この人生に究極の目的を持たねばなりません。目的を持たないで プラット
ホームに立っても、どの電車に乗っていいのか分からないのと同じです。真の人生を生きるためには、この許された命をどう
生きるか、その目標を持つことが大切です。目標は「わたしはすべての人に霊を注ぐ」と言われる神によって明らかにされます。
「その後」とは、空が真っ暗になるほどのイナゴの大群が襲ってきて全ての食糧を根こそぎ食べ尽くされた後のような状態の
ことで、これは神を神としない人間への徹底的な裁きを意味します。人間は徹底的に裁かれ、苦しみ、絶望して、涙すること
無くしては、神に思いを馳せることがないのです。この裁きの後に注がれる霊とは、出エジプト記「憤りの風によって水はせき
止められ」の海の水が真っ二つに割れてモーセは紅海を渡ったとあるこの風という言葉に、霊と同じ言葉が使われています。また
「霊が激しく彼に降ったので、彼は手に何も持たなくても…獅子を裂いた」とサムソンのことを記しています。更に、エゼキエル
書37章では、死んだ人の骨が山積みになっている谷に主の霊が入ると、その骨が結び付き、皮が付き、肉が付いて踊り出し、甦
ったと記しています。また預言者ミカは「主の霊に満ち…イスラエルに罪を告げた」と言っています。
このように霊が注れると、力ある業、預言する言葉の力が現われます。更に霊が注がれると、人は「夢を見、幻を見る」と言い
ます。「主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る」と言われているように、「夢、幻」は、神がこれによって自
らを表わし、神ご自身の意志を伝える手段となります。
このヨエルの預言は、キリストの十字架と復活によって成就し、今その完成に向かっていることが告げられます。このことは
キリストの教会が誕生した最初の説教で引用されました。しかも、霊は預言者だけにではなく、全ての人に注がれます。この霊に
よって人生の究極の目標が示されます。地上の現実は極めて不安定で移ろい易く、この肉体も日々衰えていきます。目に見える物
だけを拠り所に人生を考え、生きることは実に空しく、滅びに向かうだけです。「主の名を呼び求め」、神の霊に生かされ、確か
な幻に向かって、新年も力強く歩んで行きましょう。