・ヨハネによる福音書 15章9節~17節
15:9では「父がわたしを愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と
いわれています。14章から続いてきた訣別説教は、ここから「神の愛」、「イエス・キリストの愛」また
「私たちの神への愛」また「私たち相互の愛」へと大きく転換します。
ここでは、父なる神と御子イエス・キリストとの関係、また御子イエス・キリストと私たちキリスト者との関係は、
相互の「愛」であると言われています。従がってこのキリストの戒め、つまり『私たちが互いに愛すること』が、
『キリストの教会を形成する根本』でもあることが判るのです。わたしたちは、「キリスト教は愛の宗教である」と
広く言われていることを今一度、思い出さなければなりません。キリスト教から愛がなくなれば、無用のものとなります。
ローマ信徒への手紙12:3~8にありますように、キリスト者は、「互いに愛し合うこと」、そして「互いに赦しあうこと」、
さらに「互いに尊敬しあうこと」が求められています。それは「わたしたちが皆、互いに異なった賜物を与えられて
いるから」です。パウロは、「自分を過大に評価してはならない」とまで言っております。非常に厳しい言葉です。
私たちの主イエス・キリストは、私たちに「罪の赦し」という「恵み」と同時に「戒め」をもお与えになったのです。
そのことは福音書にもはっきりと示されていますし、聖書全体で見ても明らかなことです。たとえば、「ヤコブの手紙」
には特に多くの「戒め」が語られていますが、宗教改革者マルティン・ルターが、「ヤコブの手紙」を「藁の手紙」と
呼んだため、今でもプロテスタントの中には、ヤコブの手紙の「戒め」を無視したり軽視したりする人がいます。
そしてそのことが、教会形成を非常に妨げている原因になっています。教会形成が妨げるものは、もちろん「異端」や
「迫害」もありますが、日常的な教会形成の不振は多くの場合、このキリストの戒め「互いに愛し合いなさい」を
軽視しているために起こっているのです。
この泉北伝道所の方々は、実に7年以上の苦しい無牧の時代を過ごしてこられました。その間、大阪地区の牧師方に
支えられて、教会を守ってこられました。その忍耐力に、私は心から敬服するものです。そして、この泉北伝道所が
無牧の時を今、脱するのだから、今後は教勢を拡大し、会堂を建てる時期だと仰る方もおられます。けれども私は
そうとは思わないのです。そのように仰る方々の信仰的な熱心さには敬服いたしますが、私は今この泉北伝道所は、
「教会形成の根本は何か」ということに静かに思いを馳せていただきたいのです。「教会形成」を進めるのは、
教勢拡大への熱心な思いではなく、会堂建設の熱意でもないのです。これ等の思いは信仰的な思いに見えますし、
事実そのことは否定できない事柄でもありますが、実際は「人間的な思い」から出ている場合もあるのです(バベルの塔)。
「教会形成」を進めるものは、実に「神の愛」なのです。「神の愛」を知った人々は、必ず「人を愛する」ようになります。
今わたしたちにまず求められているのは、「神の愛を知った私達が、互に愛し合うこと、赦し合うこと、
そして互いに他を尊敬し合うこと」、そして更に、教会の外の人々に対しても「神の愛」を広げることなのです。
これこそ「伝道」なのです。勘違いをしてはいけません。「教勢拡大」や「会堂建設」はその「伝道」の結果なのです。
その「伝道」の実なのです。「実」だけをせっかちに求めてはなりません。ぶどうの豊かな実は、その枝が豊かな幹に
連なっていてこそ、収穫されるのです。神様は教勢の拡大や会堂建設が泉北伝道所にとって必要不可欠なものであることを
よく御存じであります。