◇子供の特徴、幼子の特徴の一つは、「フレッシュな驚く心」と言ってよいのではないでしょうか。何に触れても、何を見ても、
何を食べても、興味津々で、嬉々としています。わたしは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言っているパウロは、
こと信仰に関する限り、この幼子の驚く心を保持し続けていたのです。
◇神の祝福に与り得ない者が、ただ主イエス・キリストの執り成しの故に、神の国の祝福に与る事を許されている無上の幸いを、
パウロは、あのダマスコ途上の回心以来、ただの一時も忘れたことはありませんでした。このキリストの恩寵の事実は、日毎に新しく
パウロの生きる根拠であり、希望の源泉でした。
◇それに対して、主イエスの御言葉が語られた文脈はこうです。「弟子達がイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん
偉いのでしょうか』と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と。
◇弟子たちは主イエスの許にあっても、「誰が一番偉いか」と論争し、「天の国に入ることはできない」とは露思わず、「いったいだれが、
天の国でいちばん偉いのでしょうか」と問うているのです。それに対し、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、
決して天の国に入ることはできない」と、主イエスは言われたのです。
◇「神の恵みによって、今日わたしはあることを得ているです」とは、パウロの朝ごとに新しい自己認識であり、信仰でした。そして
「私の存在」が実に驚くべき奇跡であるように、実に他の一人一人の存在もそうなのです。それ故にこそ 「心を尽くして神を愛すること」
と「隣人を自分のように愛すること」とが最重要のことになってきます。
◇奇跡の恵みに感謝するところから、真の礼拝と隣人愛と伝道があふれ出ます。「驚く心」と「畏れおののく心」こそが「信仰」です。
「恵み」に触れて驚くこと」がないというのは言葉の矛盾です。恵みを忘れた者は神の国から遠いのです。「幼子の如くならずば、
神の国に入るを得じ」とは、実に峻厳にして慈愛あふれる御言葉ではありませんか。
◇コリントの教会は分派争いで明け暮れていました。これは十二弟子の「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」
論争と一つです。そこでは驚きと感謝と愛が失せていました。そこでは現臨されるキリストの無視が横行していたのです。
しかし、心を入れ替えて子供のようになるならば、決して天の国から遠くはないのです。