月報巻頭言集
1コリント127                大阪姫松教会牧師 藤田英夫
一人一人に、“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
 コリントの教会には、霊的な賜物の豊かな人がいたようです。霊の賜物は、教会に集められた一人一人の上に、それぞれ

与えられています。それは個性であり、その人らしさの表れでもあります。それが教会の中で用いられ、生かされていくとき、

それぞれに喜びが与えられると共に、教会も生き生きとしたところとなるでしょう。しかし、コリントの教会は、その

豊かさがかえって混乱を招いていたようです。それは、それぞれの賜物を見比べ、どちらが上でより尊いものかといった

順位付けや競い合いが起こっていたからでしょう。
1212以下に記されていることを見ると、そんな様子が想像されます。

しかし、パウロは、賜物を与えてくださったのは一人のお方であることを強調します。そこには、賜物に優劣はないという

主張があるように思います。

 賜物が違えば、それぞれの担う働きは違ってきます。しかし、働きは違っても、みな同じ一人のお方に仕える僕であることに

違いはありません。そして、教会という場所で大切なことは、それぞれがどれだけ教会の役にたっているかということではなく、

誰のために、そして何のために仕えているのかということです。パウロは、一人一人に霊の働きが現れるのは全体の益となるため

だと言います。それぞれが、違う賜物を与えられているのは、教会全体の益のためであり、教会を主のからだとして生かし、

たてあげていくためです。その目標や目的が見失われ、それぞれの賜物ばかりが見比べているとき、教会は真の意味でキリストの

福音に生かされているとは言えなくなってしまうのです。

 賜物が与えられているということは、神に仕える僕として生きるよう召されていることを意味します。キリスト者にとって、

僕になりきることができることこそ喜びであり誇りです。それは、一般には通用しないことかもしれません。僕になるということは

その人らしさを奪われることとして敬遠され、嫌われることだろうと思われるからです。実際、クリスチャンになることを

窮屈なことだと考えている人はわりといるのではないでしょうか。しかし、仕える者になる、従う者になるということは、守るべき

大切なことがあることを知って、それを守り抜く人になることだと思います。それは窮屈な生き方ではなくむしろ自由な生き方です。

何があっても譲ることのできない大切なものがあるからこそ、それ以外のどんなものにも恐れを抱かず、屈従することなく、

自分を貫く生き方なのです。賜物が与えられていることは、そうやって生きていくための召しが与えられていることのしるしです。

パウロは、自分のことをキリストの僕と呼びました。自分のことをそう呼べるということは、彼にとって最高に誇らしいことだった

でしょう。教会の迫害者であり、神に敵対して生きてきた彼が、神に従って働くことをゆるされたのですから。

この呼び名にあらわれているのは、神の与えてくださった恵みに生きる喜びと感謝です。それは、彼同様、ただ恵みによって罪を赦され、

救われた者誰にとっても同じです。生涯をかけてこのお方のために生きる、生きることがゆるされている。そのことへの感謝と喜びを、

自分を主イエスの僕と呼ぶことができる者は持っているのです。賜物は、その喜びや感謝を表し、主のからだなる教会をたて上げるために

用いるべきものです。それぞれに与えられている賜物を喜びながら、共に主イエスに仕える僕仲間として、主イエスの御業のために働く

喜びに生きていきたいと思います。そして、教会をたて上げ、主に栄光を帰することを喜び合う、そんな共同体を形づくっていきたい。

そのために、わたしたちの心と目を、かしらである主イエスにしっかりと向けていきたいと思います。


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泉北伝道所 月報 2013年9月