「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
(マタイによる福音書 7章1節-6節)
「裁く」という言葉は「見分ける、判断する」という意味で、必ずしもマイナスの評価とは限りません。
良くも悪くも、人のことを判断してはいけないと、主は言われます。それは、わたしたちが「自分の裁く裁きで裁かれ、
自分の量る秤で量り与えられる」からである、とも言われます。考えようによっては、人を厳しく裁くと自分も同じように
厳しく裁かれるから、厳しい裁きを受けないように、人に対して甘くしておこう、などという処世術にも受け止められかね
ない言葉です。
「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と主は言われます。
わたしたちの目に丸太があるというのは、あまりに極端な表現です。しかし、この極端さによって、主は、わたしたちと
神様との関係を表しておられます。わたしたちは、人を裁く前に、神様に目を向けなければならないのです。神様の目から
見ると、わたしたちの目には、おが屑どころか、丸太が入っているというのです。
自分の目から丸太を取り除けば、「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と
言われます。わたしたちは、自分の目に丸太があることを自覚して、目の丸太を取り除きさえすれば、兄弟のおが屑が
はっきり見えて取り除く資格や能力ができるというのでしょうか。そうではありません。ここで、はっきり見えるように
なるのは、兄弟のおが屑ではなく、キリストがわたしのために、何をしてくださったのかということです。神の独り子は、
わたしたちの目の丸太を取り除くために、真の人として苦難を歩み、十字架にかかってくださいました。この苦しみの
大きさを通して、わたしたちの目の丸太がどれほど大きなものであったかを知ることができるのです。
わたしたちは、兄弟の目のおが屑どころか、自分の目の丸太さえも、取り除くことのできない者です。しかし、キリストの
姿をはっきり見ることを通して、自分自身も兄弟も、同じように、このキリストの贖いのなかにあることを知ることができます。
このキリストの救いと贖いが、真珠という言葉で表されます。この当時真珠はどんな宝石よりも貴重だった
と言われます。この貴い恵みのみ業を、兄弟とともに大切に受け取って、歩む者でありたいと願います。
「人を裁くな」 池田教会牧師 西村ひかり
泉北伝道所 月報 2013年8月
月報巻頭言