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月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2015年8月

 本日の詩編第1編は、150遍もある詩編全体の『序』に当たる部分でありまして、詩編全体の方向を決めるものであります。

そして、この第1編には、三つの特徴が見出されます。一つは、1節の最初にあります、『幸いなことか』という感嘆の言葉

であります。旧約聖書の原文では、口語訳のように、『・・・な人は幸いである』ではなく、『幸いなことか(幸いなるかな)』

は文章の最初にあるのです。これは、いわゆる「祝福の形式」と呼ばれるもので、32編(いかに幸いなことでしょう、主に

咎を数えられず、心に欺きのない人は。)、41編(いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。)、128編

(いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。)等にみられます。また、マタイ福音書5章3節以下の「幸いなるかな、

心の貧しいもの。天国はその人のものなり。(文語訳)」も同じ祝福の形式を踏んでいす。これ等の祝福を聞いて参りますと、

神様がいかに私達人間を、祝福していて下さるかということが身に染みて分かって参ります。そしてこの最初の1節では、

「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢なものと共に座らない人は、幸いである」と謳って

います。人間がいくら自分で考えても、「幸いとは何か」ということは、死ぬまで、いや死んでも分からないのです。それは

「青い鳥伝説」にある通りです。人は『幸いの探求』に倦み疲れて、「涙さしぐみ、帰り来ぬ」のです。人間は、教えられなけ

れば、『幸い』が分からないようになっているのです。結局、それを教えて下さるのは、“神の言葉である”聖書なのです。

神の被造物である哲学者如きが、天才如きが、決して『幸い』を教えてくれるのではないのです。彼らもまた、一生涯『幸い』

を探求して倦み疲れて、死に赴く者なのです。私達は、せいぜい、「自分が、自分の家族が、また自国民が、健康に恵まれ、

平和を享受し、衣食住に不足せず、豊かに暮らすことができれば、幸いだ」と考えております。勿論それらは言うまでもなく

必要なものではあります。けれども、聖書は、私どもにこのような表面的な幸福ではなく、「本源的な幸福」を指し示して

います。それが、1節の後半にある、三つの否定形の表現です。「真の幸い」とは、「この世の悪(神に背を向け、神に逆らう

生き方)から離れて生きることだ」と言っているのです。聖書はまず私達に、「・・・しない」という否定形の倫理を示します。

十戒もそうです。十戒はすべて(最初の前文を除いて)、否定形で示されています。神は、私たちが悪から遠ざかること

(否定)によって、御自身に近づくように期待しておられるのです。またここで、「傲慢なもの」は、口語訳では、極めて

具体的に「嘲る者」と訳しています。多分その方が直接的で理解しやすいのではないでしょうか。

 二つ目は、「神に従う人」と「神に逆らう人」のように、言葉が対照的に用いられることによって、意味が明確になり、詩と

してのリズム感も出て参ります。こうした表現は、いわゆる、「知恵文学(箴言やコヘレトの言葉)」と呼ばれていて、その影響

が強いことを伺わせます。

三つ目は、2節にありますように、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人(は幸いである)」と謳っています。

「主の教え」とは、狭い意味では、「モーセの5書(律法の書)」や「十戒」のことを言っていますが、広くは聖書の教え

全体を言っています。1節後半では、「人の幸い」が否定的に表現されていますが、ここでは、「肯定的に」表現されてい

ます。具体的には、十戒一つだけでも考えて下さい。第4戒の「安息日遵守」ですが、これを全く無視するところに、

「極限的な過労、そしてそれから来る自殺の問題」などがほとんど毎週新聞を賑わしております。第6戒の、「殺してはなら

ない」以下の戒め、これを犯してどれほど多くの人間が苦しんでいることか、私達は自ら、人生を狂わせています。極めて

当然のことでありますが、現代という時代が正に狂気の時代なのです。私達はもっと「十戒」を真剣に学ばなければなりませ

ん。私達の生活には、何よりも「主の教え」「主の掟」「神の言葉」が中心に据えられねばなりません。ある日本の神学者は、

「現代は規範のない時代である」と言って嘆いておりますが、まさに正鵠を射ています。けれども、「聖書」を中心にした

生き方にこそ、神の祝福が豊かに溢れるのです(マタイ福音書6:31~34)。これは、私達の創造主である神様が保証して

おられることなのです。人間の保証や、国の保証などがどれほど当てにならないかは、いやむしろ人を欺く者でさえあると

いうことを、私達は、第2次世界大戦でいやというほど知ったはずです。

 3節は、このことを川の流れのほとりの木に譬えて謳っています。そして、更に、4節と5節では、「神のみ言葉に従わない人」

つまり「神に逆らう人」の人生を忠告しています。私達は、どちらに向かおうとしているのでしょうか。神の祝福が約束されて

いる方向に向かって歩まなければなりません、いや、歩み続けなければなりません。

最後の6節では、「神に従う人の道を主は知っていて下さる」と謳われています。これは、私どもにとってどれほど深い喜び

であり、慰めでありましょうか!人は、人の歩みを殆ど誤解しています。けれども、どれほど誤解されようが、悪態を吐かれ

ようが、本当にその人が、神様に従って歩んできた人であるかどうかは、神様御自身が証明して下さるのです。驚くべきこと

であり、また、感謝すべきことであります。










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