ヨハネ福音書4章7節にあるように、ヨハネは、「人間を照らす光・イエス・キリストについて、証しをするために神から、
世に遣わされた人」であった。更に8節にあるように、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と言っている
点が大切なポイントです。「ヨハネは光・キリストではなく、光であるイエス・キリストについて証しをするために来た」
のであります。キリストの教会は、このヨハネと同じ働きを現在も負っているのですから、「教会はキリストではない
(多くの欠けを持っている)」ということを私たちは謙虚に聞く必要があるのです。「教会は、光ではなく、キリストについて
証しをする者として」この世に存在しているのです。教会の本質的な役割は、何か、それは、「キリストを証するためにだけ
存在している」ことであり、この世に向かって、「見よ、神の子羊だ」とイエスを指し示すだけです。教会の主(しゅ)、
教会の頭(かしら)はキリスト・イエスであって私たちではないのです。けれども、現実には、私たち信仰者が「教会の主」
となっていることがよくあるのではないでしょうか。それは、私たちの教会から人々が出てゆく場合に、特にそうなのでは
ないでしょうか。自分に与えられた信仰を基準にして、その人達の信仰を色眼鏡で見てしまい、その人達の信仰を批判して
しまい勝ちなのです。その人達は何らかのやむを得ない信仰的な事情があって出て行くのであって、その信仰を私たちは批判
してはいけないのです。もし私達が、出てゆく人達を批判するなら、入ってくる人達にはどう考えるのでしょうか。出て行く
人達は間違っていて、入ってくる人達は正しいとでもいうのでしょうか。そのような勝手な論理は成り立たないでしょう。
個人個人の信仰の内面的な葛藤は、外部の私たちには分からないことです。入って来る人達を私たちは、喜んで受け入れる
のですから、出て行く人達も悲しみつつも、喜んで送り出さなければならないのです。私たちは、出て行く人を裁いてはなら
ないのです。そのことが、コリント書4章5節に記されている言葉なのです。《ですから、主が来られるまでは、先走って何も
裁いてはなりません。》「主が来られるときまで」とは、「世の終わりまで」ということであります。それは、別の言い方で、
ヤコブ書4章11節以下の、「自分の兄弟の悪口を言う者は、兄弟を裁く者」となります。けれども、裁きを行う人はただ一人、
神様だけなのです。ですから、私が先走って兄弟を裁くなら、「私が神になっている」ことになる。あり得ないことです。
神様から、「隣人を裁くあなたはいったい何者か」と問われるでしょう。
「教会とは何か」ヨハネによる福音書 1章6~13節,コリントの信徒への手紙 一4章1~5節