月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2015年6月

《その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて、自分達のいる家の戸に鍵を掛けていた。そこへ、

イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。(19節)》本当に不思議な出来事が記されている。

週の初めの日とは、日曜日であり、私達がいつも礼拝を守っている日である。主イエスの、ユダを欠いた11人の弟子達は、

ユダヤ人を恐れて、自分達の家の鍵を掛けていたのです。何故彼らは、ユダヤ人を恐れたのか?一つは、自分達の主イエスを

十字架にかけて殺したユダヤ人達が、自分達をも十字架に掛けるのではないかという恐れ、二つ目は、主イエス自身に、

「何故、お前達は、私を見捨てたのか」と詰問される恐れ、三つ目は、自分達弟子たちが、いつか、主イエスがユダヤ人の

王となり、自分達も相応の地位を与えられるという望みもなくなった失望感など様々な思いの交錯する不安と怖れ・失望の

中に沈んでいたのです。このように恐れと不安から自分達の家(教会)の戸を閉じている状況は、まさに、現代の教会の

状況そのものでしょう。けれども、主は、この家(教会)の閉じられた戸を易々と越えて、家(教会)の中に入って来られ、

しかも、「あなたがたに、平安があるように」と挨拶されたのです。弟子達の驚きと怖れはどれほどのものだったでしょうか。

弟子たちは、一方で、「ああ良かった。主は私たちを恨んではおられなかった」と安堵の思いを持ったことでしょう。

これこそ主の赦しなのです。《そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子達は主を見て喜んだ(21節)。》とある

ように、主は弟子達に、十字架上で手に受けられた釘跡と槍で突かれたわき腹の傷をお見せになったのです。

弟子達は深い衝撃を受けたことでしょう。十字架で亡くなったと思っていた主イエスが、今このように、「私は生きている。

私は甦ったのだ」とはっきりとその肉体を見せて下さったのだから。だから、弟子達は、喜んだのです。信じられない思いが

強かったでしょう。主の復活の形は、鍵穴を通るように、幻影のようなものなのか、それとも、傷跡がある肉体を持ったもの

なのか、彼らにも私達にも、全く分かりません。復活は、このように、私たちの理解をはるかに超えているが、何も恐れる

必要はない。神の業は常に私たちの理解をはるかに超えているのです。私達も終わりの時に主の復活に合わせられて、復活する

のだということだけを信じていれば十分なのです。

 《イエスは、重ねて言われた。「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」》

ここで再度、主イエスは、私たちに向かって、平安の挨拶をなさいます。それは、主を裏切り、ユダヤ人(周囲のすべてのものと

自己自身)を恐れる弟子達(私たち)に向かって、「あなた方の父なる神は、いつもあなた方と共にいて下さる」のだ(インマヌ

エルの神)、しかも「裁く神としてではなく、私達の罪を赦す神」として、共にいて下さるのだという宣言であります。

《そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」》これこそ、主から私たちに向かってなされる、

全世界への派遣の命令であります。私達、泉北伝道所も間もなく新しい会堂を与えられて、そこから伝道に乗り出すのです。

それは希望でもありますが同時に、「伝道がうまくいくだろうか」という恐れを伴っています。けれども、大切なことは、

伝道は、父なる神が子なる神を派遣されたのと、同じその派遣であり、最初の人アダムが神様から息を吹き込まれて、初めて

命あるものとされたように、神の命(聖霊)が吹き込まれたのだか
ら、「安心して、出て行きなさい」という派遣命令なのです。

私たちは何を伝道するのか。自惚れてはなりません。新しい伝道所で私たちは、何か新しい事を始めるのではありません。

自分自身や自分の思想を伝道するのでも全くありません。私たちは、あらゆる時に、あらゆる場所で、『復活された

主イエス・キリスト』を宣べ伝えるのです。それ以上に出てもいけないし、それ以下であってもいけない。

主イエスの御言葉と御業とそれに従った多くの人達の信仰の業を伝えて行くのです。





















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「わたしもあなた方を遣わす」 ヨハネによる福音書 20 章 19 ~ 23 節