現代の日本とその時代は、「極めて深い闇」に閉ざされていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
それは、具体的に言いますと、イスラム過激主義とその世界的拡散、地球温暖化の問題、原子力発電所の震災対応の問題、
三連動大地震対応の問題、また、隣国の軍事的膨張の問題等の他に、私たちキリスト教会の不振など、私たちの国にプロ
テスタント信仰が伝えられてから約150年間のうちで、四つの大きな大戦(日清、日露、第一次大戦、第二次大戦)の時代を
除けば、最も暗い時代を迎えているのではないでしょうか。これ等はいわば外面的な闇でありますが、聖書が、そして神が、
問題にしておられるのは、私達の心の中の深い内面的な闇(罪)であります。永井春子先生は、その著書(十戒と祈りの断想)
の中で、「罪とは、私達がしてはならない事をしようとする、人間の傾向と行為である」と言われていますように、私達が
どのように足掻いても、免れることのできない傾向(闇)があります。神様は、私達がしてはならないこと(例えば隣人の
ものを欲すること(十戒第10戒))をしなければそれでよいと判断しておられるのではなく、私達がしてはならないと言わ
れることをしようとする心の傾向まで、裁いておられるのです。生まれてからこの方、一度も隣人のものを妬ましく思った
ことのない人はいないでしょう。ですから、この裁きに耐えられる人は一人もいません。けれども、もっともっと大切なのは、
私たちの聖書が、いわばこれらの暗闇の中に沈んでいる私達と私たちの国に向かって何を語っているかということであります。
本日のヨハネ福音書1章1節から18節の御言葉から、神様の深く静かな御心を聞いて参りましょう。この18節までの聖書の
個所の主題は、その「小見出し」にもありますように、かつては、「言葉が肉となった」と14節の「言は肉となって、わたし
たちの間に宿られた」(神の子イエス・キリストが、人 間の姿になられたということ)であると考えられていましたが、
現在は、そうではなく、1節から18節までの中心は、18節「いまだかつて、神を見た人は 一人もいない。父のふところに
いる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示されたのである」にあると考えられるようになりました。
つまり、「人間イエスが神である」という驚くべき使信がヨハネ福音書の中心なのです。そして、このヨハネ福音書を学ぶ者は、
1章から20章までによって、「イエスとはどのような方であるか」を知って、疑い深いトマスがついに主イエスによって、
《わが主よ、わが神よ》という信仰告白に導かれたように、私達もまた、《わが主よ、わが神よ》という信仰告白に導かれる
事を神様は熱心に期待し、望んでおられるのです。
聖書は、「天が地よりも高いように、・・・(詩103:11)」と述べていますように、神様は私達人間をはるかに超越して
おられる方でありますから、「私達人間は触れることも、見ることもできない高みにおられる方である」と宣言する一方で、
「神様から派遣された独り子である神・主イエスによってのみ子の神様御自身が啓示されている」と、宣告しています。
ヨハネ福音書では、このナザレ人イエス様を神様であると告白し、その方によって命(永遠の命)【救い】を得る事が、
ヨハネ福音書の書かれた(そして読まれるべき)究極的な目的でもあると言っているのです。私達のこの「クリスマス」は、
「神様であるナザレ人イエスが、私達の目に見え、耳に聞こえる方として、地上に生をお受けになった」ことを神様に感謝し、
神様を誉めたたえる日なのです。この世の闇が、そして私達という人間の闇(罪)がいかに深くても、いやむしろ、そうである
からこそ、神の御子イエスは、私どものところにお生まれになり、私どものところにお出でになり、自己の罪を認め、告白する
者には、「神の子となる資格を与える」と宣言しておられるのです。驚くべき、恵みの宣告であり、福音であります。