月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2015年10月
  私達現代人は、全く自由な時代に生きています。何を信じようと自由であるし、何をも信じなくても自由なのです。

世の中には自由があふれています。人々は何の規律も要らないし、何の規範も不要であると言っているようにさえ見えます。

勿論、自由は尊いものです。聖書においても、自由をとても大切なものとして扱っています。コリント信徒への手紙3:17に

ありますように、《主の霊がおられるところに、自由がある》のです。そのように、自由の根源は、聖書にあるのです。

けれども、人々はこの貴重な自由を誤用しているために、様々な不道徳なことや犯罪があふれています。この手紙において

述べられているように、人は、主の霊と共に生きているのでなければ、その自由は悲惨なものとなります。本当の自由は、

「キリスト者でなければ用いることも、生かすこともできないのだ」と聖書は言っているのです。別の言い方をすれば、

自由にはある掟が必要だという事です。無制限な自由などと言うものは、人間が被造物である限り、存在しないからです。

いくら自由であっても、というより本当に自由であるためにこそ、掟(戒め)が必要となるのです。無制限な、無制約な

自由は、「悪魔」を産むだけなのです。そして、その「掟」こそ、主が共観福音書で示しておられる、「最も重要な掟」

なのです(マタイ福音書22:34~39)。主イエスは、私達が良い人生を歩んで行くように、また祝福された人生を歩んで

行くように、この「最も重要な掟」を示されたのです。そこでは、二つの大切なことが示されています。《主イエスは

言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の

掟である。第二もこれと同じ様に重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』・・・」》

  そして、この「最も重要な掟」の第一の掟は、私たち被造物の創造者である神に対して、私たちが守るべき私達の掟

(恵みの応答)を示しております。また、第二の掟は、私たち被造物相互の護るべき掟を示しています。さらにまた、

私たちにもっと以前から与えられています戒め(十戒:出エジプト記20:1~7等)においても、その前半(第1戒~第4戒)は、

創造者に対する被造物の取るべき態度(恵みの応答)を示しており、その後半(第5戒~第10戒)は、被造物相互が守るべき

規範を示しております。つまりいずれの掟も、前半が、神に対して人間の取るべき規範(神への愛と奉仕という生活規範)

を示し、後半が、人間相互の規範(人間相互の愛と奉仕という生活規範)を示しております。不思議な一致であります。

更に、一歩を進めますと、これらの掟の、前半は、「教会生活」を示し、後半は、「社会生活」のあり方を示していると

言ってよいでしょう。つまり、前半の掟が、被造物にとって、本質的な規範であり、後半の掟が、その本質から派生する

付属的な規範であると言えます。勿論、付属的な規範だから、適当で良いという意味ではありません。相互補完的ではあり

ますが、前半の方が明らかに優位であると申し上げているのです。私達はこの最も大切な掟の中でも、現実的な生活の中で、

より中心となる掟(十戒の第4戒)に、本日は注目しましょう。そこでは、《安息日を心に留め、これを聖別せよ(神様の

ものとしなさい)。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる

仕事もしてはならない。・・・》ここでは、“神のもの(安息日)は、神のものとし、人間のもの(六日間の労働日)は、

人間のものとせよ。”と言われているのです。神のものと人のものを混同することが、すべての悲劇の源なのです(アダムと

エバの過ち(罪))。この第4戒は、現代に生きる私達にとって、何か極めて古めかしい、打ち捨てられた規範のようにも

見えますが、実は、被造物たる私達人間に、命を与える“恵の規範”なのです。人間は、主の日(日曜日)には、何としても

労働から解放され、主にまみえ、主を礼拝する日、特別な恵の日なのです。つまり、主の日(日曜日)は、教会での礼拝を

守る日としなければならないのです。礼拝の中でこそ、自己の人生の意味が与えられ、知らされる恵の時なのです。礼拝から

遠ざかれば遠ざかるほど、その人の人生の意味も喜びを失っていき、何のために生きているのかが遂には、分からなくなって

いくでしょう。現代という時代は、神様と人間の関係が、逆さまになっている時代なのです。そこからあらゆる悲惨が起きて

いるのです(コリント信徒への手紙 一 6:9~10)。この一見、極めて単純な事実(主の日の礼拝)の上に、すべての人の

人生の基盤が据えられているのです。《そこで、私のこれ等の言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に

似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。“岩”を土台としていたからである。

私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いて

その家に襲い掛かると、倒れて、その倒れ方がひどかった。(マタイ福音書7:24~29)》ここでも、“岩”とは教会を示して

いるのです。けれども、悲しいことに、多くの人はノアの時代のように、このことに気付きません。私達は、愛する同胞の救い

のために、この主の御言葉を宣べ伝えて行かねばなりません。












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「十戒と私達の生活」  マタイ福音書 22 章 34~39 節