エルサレムに主イエスと弟子たち一行が到着してから三日目の火曜日に、ベタニヤ近くで主が呪われたいちじくの木が、
根元から枯れているのを、一行は見ました。これは、エルサレム神殿に眞の神信仰が見られないことに対する、神の
裁きの“しるし”であると言われております。そのとき、主イエスは、「神を信じなさい」と弟子たちに言われました。
あらためて、私たちに対して、神への信仰が求められているのです。その信仰は、「少しも疑わない信仰」です。
ここで言われている「信仰」という言葉の原語は、同時に「信頼」とも訳すことができます。それは、たとえば子供の
親への信頼であり、信仰であり、親を頼りきり信じ切らなければ生きていけない子供の信仰です(マルコ10:13~16)。
それを主は称賛しておられるのです。また、逆に、「疑う信仰」に対しては、悪霊に取りつかれ、癲癇症状をたびたび起こす
子供の父親が、主イエスに向かって、「おできになるなら、私どもを憐れんで下さい」と懇願した時に、主は、「『できれば』
と言うか。信じるものには何でもできる。」と激しくお怒りになりました(マルコ9:14~)。
本文に戻りましょう。11章の24節では、主は、「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既にかなえられたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。」と仰っています。このような主の言葉を聞けば、中には、「何と調子のいいことばかりを、
主は言われる」と思われる方もいるかもしれません。けれどもこの主の言葉は、本当なのです。神は私達の一挙手一投足、
また、心の中の深い、人には話すことのできない思いまでも御存じなのです。人間はごまかされます。右の人に対する言葉と、
左の人に対する言葉を、180度変えていても当面は暴露されることはありません(それを偽善と言います)。けれども神様は
ごまかされるような方ではないのです。暴露されないのは、神様がしばらく猶予されているからです。
「祈り求めるものは、」 マルコによる福音書 11 章 20~24 節