月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2014年9月

 マタイ福音書の7章は、5章から続く山上の説教(祝福)の終わりの部分であり、いわば結論といえる個所です。

その中でも、2427節は、私たちの現在の生き方を終末から判断した個所です。24節では、「そこで、私のこれらの言葉を

聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と主イエスは言われます。「私のこれらの言葉」とは、

5章以下の山上の説教(祝福)全体であり、「岩」とは、イエス・キリスト御自身のことです。そして、「聞く」と「行う」

という行為の組合せは、四つの人間のタイプを、想起させます。それは、①これらの言葉を、聞いて、行う者、②聞くが、

行わない者、③聞かないで、行う者、④聞きもせず、行いもしない者、です。④の人たちは恐らく教会外の人でしょう。

ですから一応今回の議論中からは除外します。(ただし、人間には良心が与えられていますから、神の言葉を聞いていなくても、

神の言葉を実行している人は案外多いのです。)①、②、③の人は教会員、つまり、神を信じる人でしょう。

まず、③の人は、いわば、「買い物を頼まれて、その頼みごと全部を聞かないうちに飛び出して行く人」であり、結末は明らか

でしょう。①の人は、信仰的に言って理想的な人でしょう。問題は②の人たちです。教会の礼拝に出ていても、「聞くだけで

満足している人、聞いてもどこか他人事として聞いている人、聞く言葉を自分に語られている言葉として聞くことができない人」

のことです。ある説教集では、「『今日の牧師の説教はとてもよかった。ぜひ、うちの主人に聞かせてやりましょう。』と言っている、

自分にも向けられている説教とは想像もできない奥様もそうです」と言っています。私たちも自分自身を吟味する必要があります。

何を聞くのでしょうか?「私の天の父の御心」を聞くのです(721)。イエスがキリストであることを聞くのです。

イエス・キリストの言われたこと、なさったことを聞くのです。神の言葉を聞くのです。聖書全体から聞くのです。

また、人のことばの中から、神の言葉を聞き取ることも大切です。①の人には、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を

襲っても倒れなかった。岩を土台としていたからである。」とノアの洪水に譬えられて、言われているように、①の人は

終末のときにも、耐え得る人達です。②と③の人は教会員でありながら、「砂の上に家を建てた愚かな人」であり、終末の裁きに

耐えられないというのです。つまり、教会に属するということだけでは、その人の救いは保証されないということです。私たちに、

主イエスは、「聞いて行う者になりなさい」と勧めるのです。何を行うかも大切です。主イエスは、律法の完成者であります。

というより律法を根本から解釈しなおして、私たちに律法とは何かを教えて下さっています。律法とは、「心を尽くし、精神を尽くし、

思いを尽くしてあなたの神である主を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」であります(22:3740)。隣人とは、

教会内の人だけではありません、教会外の人も含みます。むしろ教会外の隣人の方が圧倒的に多いのです。

私達は、「聞くだけの者」になってはいませんか。

ホーム

泉北伝道所紹介

月報巻頭言

聖書の言葉

初めての方へ

アルバム

地図

「聞くだけの信仰」 マタイによる福音書 724