使徒言行録 1 章 3 節では、《イエスは苦難をうけた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって弟子たちに示し、
40 日間にわたって彼らに現れ、神の国について話された。》とあります。ここでは「40 日」という言葉に注目しましょう。
この「 40 」という数は、いわゆる旧約聖書以来、「完全数」と言われておりまして、「聖なる期間」を現わしています。
つまり、「神が特別に定められた期間」という意味です。旧約聖書におきましては、この「 40 」という日数は、色々なところに
何度もでて参ります。
まず、皆様もご存じの、「ノアの箱舟」の個所です(創7:4)。そこでは、「私は、40 日 40 夜、地上に雨を降らせ、
わたしが作ったすべての生き物を地の面から拭い去ることにした。」と神様はノアに語っておられます。
また神の民イスラエルが、エジプトを脱出してから、「乳と蜜の流れる地」と言われた「カナン」に入るまで「40 年間」を
要したとあります。
モーセがシナイ山で、神様から「十戒」という戒めを、再び授与された時も、モーセは主と共にシナイ山に「40 日 40 夜」、
とどまったと言われております(出エジ34:28)。
また預言者エリヤはアハブ王に殺されることを恐れて、40 日 40 夜、歩き続け、ついに神の山ホレブ(シナイ山)に着いたと
あります(王上19:8)。
また新約聖書では、イエス・キリストが宣教を開始される前に、荒野で「40 日間」、サタンに試されたといわれております(マタ4:2)。
これらの事例からも判りますように、正に「40 日」間という期間は、神様が特別に定められた「恵みの期間」であり、
同時に「試練の期間」でもあったということが判ります。
本日の使徒言行録 1 章 3 節の「イエスが『40 日』にわたって彼らに現れ、神の国について話され、御自身の生きていることを
示された」ということは、弟子たちにとって非常な「喜び」であったでしょう。しかし、まだ、約束されたものを受け取っていない
という意味では、彼らには「不安」が残されていました。そのような意味ではまさに「試練」の時であったのです。
このことは、正に私達の今の状況を、示しているのです。私達は、既に神様の約束された「聖霊」を受けていますから、
神様のご意思が判り、神様がどのように豊かにあしらっていて下さるかということを、理解し喜んでいます。
それは「大きな恵み」であり、感謝です。しかしまだ終わりの時は来ていませんから、私達はまだ、本当にはどのようなものに
なるのかということに関してはやはり「不安」があります。神様の約束は信じていながらも不安がある私達はいわば
「中間の時」(試練の時)にいるのです。
けれども、「神様は、私達に耐えられないような試練をお与えになる方ではない。必ず逃れる道をも同時に備えていて
下さる。」のです。私達は、「なぜこのようなことで自分は一生苦しまなければならないのか」と嘆きます。けれども神様は、
「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」という不思議なみ言葉を、私達に賜ります。
この言葉は矛盾した、判りにくい言葉です。けれども驚くほど「真実な言葉」なのです。
私達は、このしばらくの「中間の時」である「恵みの時・そして試練の時」を神様が、助け主であり、慰め主である聖霊を
与えて下さって、豊かに私たちを導いて下さるよう祈るのであります。