月報巻頭言集

・ルカによる福音書18章15節~17節 

 5月4日の第1主日は、日本キリスト教会では「日曜学校日」と定められていますので、この日にちなんで、

上記の聖書の個所を取り上げました。私どもの伝道所では、中断されている「日曜学校(児童礼拝)」に思いを

馳せながら、本日の聖書の個所から、み言葉を聞いてまいりたいと思います。

 15節では、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子たちはこれを見て叱った。」

とあります。人々が乳飲み子(幼子)までも、主イエス・キリストのもとに連れてきたのは、恐らく祝福の祈りを

長老たちにしてもらうためでありましょう。ですから、本来はなにも大人が叱る理由がないのに、弟子たちが叱ったのは、

結局当時のユダヤ教の教えに基づいて、「子供は大人と異なって、律法を守れない存在だから、神様の救いの対象になっ

ていない」と彼らが考えたからです。ところが、16節では、「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。

『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」と

言われました。イエスは、「神の国は子供たちのものである」とはっきりと言われたのです。驚くべきことです。

「あなたたちの考え方は間違っている。あなたがたは神の国とはどのようなものであるかが根本的に分かっていない」と

言われたのです。それは、「神の国は、子供達は罪がないから、子どもたちのものだ」と仰ったのでは全くありません。

子供達も妬むことは知っていますし、都合の悪いことは隠そうとします、つまりすでに罪は持っています。それは、

【子供、特に小さな子供や幼児、乳飲み子は親の保護がなければ一日も生きていくことができない存在であるからなのです。

それは一切において、他に頼ることしか知らず、自力で生きていくことができない存在だから】なのです。

それは前の9~14節で、自己に頼ることをせず、自己の罪を認めて、神の憐れみのみに頼る徴税人と同じなのです。

主イエスは「神は小さなもの、病を得て非力な者、もっといえば、自己がこの世を生きるに値しない者であると思わざるを

得ない者(つまりいずれも、神に頼るしか生きることのできない者)の味方であり、神の国は実にそのようなものたちのもの

である」と仰っているのです。このことは聖書全体においても、終始一貫していることに皆様もお気づきのことでしょう。

ここでは、「幼子と親との関係」と「人と神の国の関係」の二つの関係が、二重写しに示されていますが、決してそれだけでは

ないのです。ここにはさらに、この二つの関係に加えて、「人と教会の関係」も暗示されているのです。つまり、主イエスは

「教会は小さなもの、非力な者、もっといえば、自己がこの世を生きるに値しない者であると思わざるを得ない者(つまり

いずれも、神に頼ることによってしか生きることのできないことを知っている者)の味方であり、教会は実にそのような者

たちのものである」と仰っているのです。

ですから教会の中では、「神にではなく自己により頼む者、この世的に大きな者であることを誇っている者」は「小さな者」

となります。まさに、「主は、思いあがる者を打ち散らし、身分の低い者を高く上げ、富める者を空腹のまま追い返されます」

と言われているとおりなのです(ルカ福音書1:51~53)。

ですから、わたしたちは自分が小さなものであることを恥じる必要は全くありません。むしろ小さな者とされていることを

喜ばなければなりません。小さな者にこそ神の祝福は豊かに与えられるのです。そしてこの小さな者が、神の示したもう道を

驚きと感謝をもって歩み続けるときに、「神の国」に入れられるのであります。

「子供たちと神の国」         泉北伝道所牧師 安田 修
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