01エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。
02「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者
どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。03あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなか
った。04しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。05だから、どこから落ちたかを思い出
し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所か
ら取りのけてしまおう。」
2節3節にこうあります。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と
称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、
疲れ果てることがなかった」と。これは万事を見通される主イエスのエフェソ教会に対する評価の御言葉です。これを読むと
エフェソ教会に対して慕わしさと敬意さえ覚えます。はたして帝国の弾圧が厳しかった戦前の日本の教会に、このように評価される教会が
実在したであろうか。今日の我々の教会はどうだろうか。
しかし主イエスの教会への求めには限界がない。その信仰・忍耐・労苦を評価されたエフェソ教会に主はこう言われます。
「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、
悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から
取りのけてしまおう」と。
「初めのころの愛」とは何であろう。愛・アガペーは讃嘆のことである。今、私たちは受難節を過ごしているが、この御言葉から私は
ルカ福音書が描く主の十字架上の御姿と御言葉を連想します。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して
ください」と嘆願した犯罪人に主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。
この犯罪人は十字架上で主イエスの愛に捕えられます。十字架刑がどれほどの苦痛か想像し難いのですが、このとき彼が覚えた喜びこそ
「初めのころの愛」と言えるものではないだろうか。何の功もない者が、死滅こそ当然の者が、楽園に招じ入れられるとは、想定外の
主イエスの処遇です。この一事への讃嘆が失せる時、教会は主イエスの教会ではなくなるのです。