月報巻頭言集
マルコ4:3        大阪姫松教会牧師 藤田英夫
よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。           

マルコ4章には主イエスがお話しになったたとえがいくつかまとまって記されています。

その初めが種を蒔く人のたとえです。改めてそう言われるとぴんとこないかもしれません。

このたとえは、神の言葉という種を受けとめる4つの土地のたとえとして読まれることも多いですし、

主イエスご自身、12節以下で4つの土地がそれぞれどういう人を指しているか解説していらっしゃいます。

ですからわたしたちはこのたとえを読むとき、自分はどの土地に当てはまるだろうというふうに考えながら読むのです。


 けれど、その前に、これは種蒔きのたとえであることに思いを向けたいと思います。

蒔かれた種は大きく2つに分けることができます。実をつけた種とつけなかった種です。

そしてこのたとえを読む限り、実をつけないままになってしまう種のほうが多くあるような印象を受けます。

そこには、み言葉という種を蒔く働きに伴う困難さが表れていると言えるでしょう。

御言葉の種は、蒔かれたからと言ってどれもこれもが芽を出し、実をつけるというふうにはいきません。

なぜなら、わたしたちは罪人であって、み言葉を聞いたからといってすぐそれを素直に受け入れることは出来ないものだからです。

だから、御言葉の種を蒔く働きにはいつでも困難が伴いました。それはいつの時代の、どの場所でも同じだったのではないでしょうか。

今も、わたしたちはその同じ難しさにぶつかっています。伝道するということは本当に難しい業だとつくづく思います。

 けれど、だからこそ、このたとえが語る約束にしっかり耳を傾けなければなりません。

種を蒔くために出て行く種蒔きとは、まず誰よりも先に主イエスご自身のことを意味しています。

そして主イエスご自身、み言葉を伝えることの難しさに面と向かっておられました。主イエスの周りにいる人たちは、

やがて主イエスを捨て、十字架につけることになります。弟子たちでさえ、主イエスをおいて逃げ出してしまいます。そのことを

ご存じであった主イエスは、御言葉の種が根づいて芽を出すということがどんなに難しいことかよく知っていらっしゃいました。

でも、主イエスは種蒔きをやめたりなさいません。無駄になる種が多くあると分かっていても、また実らせることがどんなに難しいと

知っていても、種を蒔くことをあきらめる種蒔きなどはいません。

主イエスも、わたしたちの罪深さをよくご存じでありながら、それでも種を蒔くことをおやめにはなりませんでした。

蒔かれたものがすべて実をつけるのではないかもしれないけれど、蒔かれたものすべてが無駄になるのでもないことを知っていらっしゃる

からです。そして、種から実を結ぶものが表れるとき、たとえそれがどれだけ少なくても、そのことを祝福し、主イエスご自身が心から

喜んでくださるのです。30倍、60倍、100倍にもなったとは、その祝福や喜びの大きさを表していないでしょうか。

 詩編126:5、6にこう歌われています。

「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、

喜びの歌を歌いながら帰ってくる」

泣きながら種の袋を背負って出て行き、涙と共に種をまいたのは、他でもない神御自身であり、主イエスではなかったでしょうか。

わたしたちはその働きによって生みだされた一人一人であり、一つ一つの群れなのです。神は今も種を蒔く仕事をやめてはおられません。

信仰の実を結ぶ者が起こされることを待ちながら、ご自分に仕える僕たちを通して種を蒔き続けておられます。

わたしたちはその神に従って、あきらめない種蒔きとなって働きたいと思います。

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