月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2014年12月

 

 パウロは、この4章1節で、「こういうわけですから」と話し出しておりますが、その意味は、前章で

「あなた方は、神の畑であり、神の建物なのです」、さらに、「あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に

住んでいることを知らないのですか」と言い、「ですから、誰も人間を誇ってはなりません」と結論していることを引いております。

そして、4章1節では引き続き、「人は私たち(つまりキリスト者)を、キリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた

管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っております。

パウロは、私たちキリスト者の有り様(よう)に付いて、実に冷静にしかも核心をついた言葉で教えてくれています。

神の計画は余すところなく、聖書に記載されていますが、それでも私たちはそれを完全にくみ取ることは許されていません。

それが開示されるのは終わりの時です。私たちはそのことをわきまえて、謙遜でなければなりません。

 ところで、パウロは、「神の計画を委ねられた私たちキリスト者は、その計画の忠実な管理者でなければならない」と言っています。

この「忠実な」という言葉の原語(ピストス)は、この意味の他に、「信頼している」とか「信仰している」という意味も持っております。

そして、この「ピストス」という言葉に近い言葉として、「ピスティス」という言葉があり、この言葉は、「信頼」とか「信仰」とかの

意味で使われています(使徒言行録6:5)。つまり、これらの言葉の使い方から判断できることは、「信仰とか信頼、或いは忠実」と

いうことは、いわば親戚関係にあるということなのです。

私達、日本キリスト教会のキリスト者は、本当にまじめですから、信仰を難しく考えがちであります。けれども、いま言いましたように、

「信仰とは信頼である」と言い換えても良い位近い関係なのです。

「信頼」の最も分かりやすい事例は、「親と子の関係」また「夫婦の関係」でしょう。

「キリスト教信仰」とは、「子供達がその親を信頼して生きていく関係」なのです。難しいことは分からなくても、小さな子供は親に、

全面的に信頼しながら成長していきます。

信仰とは、私たちの父である神様に全面的に信頼して生きていくこと」、「神様の憐れみ・慈しみに生きて行くこと」なのです。

この信頼があれば、またこの信頼が続くならば、もうそれでクリスチャンなのです。

事実、聖書では、特に福音書ではそのことが、多くの所に示されています。例えば、マタイ福音書19:13~では、

イエスに手を置いて祈って戴くために、人々が子供たちを連れて来た時、弟子達はこの人々を叱ったのですが、イエスは、「天の国は

このようなものたちのものである」といって弟子たちをたしなめられました。

また、ぶどう園の労働者の譬え話で、「私は、夕方五時に雇われたこの最後の労働者にも、夜明け前から夕方5時までよく辛抱して

労働したあなたと同じ様に支払ってやりたいのだ。」と仰いました(マタイ福音書20:1~)。

さらにまた、「ある人が、羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに

行かないだろうか」とも仰いました(マタイ福音書18:10~)。

これ等の譬え話や出来事は、効率や結果を重視するこの世の常識とは大きく異なっています。

私たちが信じる神様は、驚くほど優しさと憐れみに富みたもう方であり、その神様が、私たちに、「我に従え、そうすれば、

あなた方は命を得る」と約束して下さっているのです。

 

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「信仰と信頼」 コリント信徒への手紙 一  4章1~2節