私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には
与えられていないのです。(使徒言行録4:12)
わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、
大胆に神に近づくことができます。(エフェソ3:12)
五旬節(ペンテコステ)の日に、主イエスの弟子たちに聖霊が降って、彼らが神の偉大な業を語り始めると同時に、足の不自
由な男を癒して立ち上がらせることもしたので、人びとは非常に驚いた。そこで、ペトロは神殿で説教を始めて(使徒3:11~
25)、「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16)と証言し、更に、「だから、自分
の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19)と勧めた。こうして、ペトロたちの言葉や業を見聞きして、イ
エス・キリストの名を受け入れる人の数が急速に膨れ上がった。
一方では、ペトロやヨハネたちに反発した祭司やサドカイ派の人びとが二人を捕らえて(4:3)、当時の最高議会であるサン
ヘドリンを招集して、二人を取調べ始めた(4:5以下)。彼らが、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいう
ことをしたのか」(7)と尋問したところ、ペトロは聖霊に満たされて、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、
あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名による」(9~10)と
明言した。
このような確信は、彼らが築き上げた信念とか、歴史や伝統の中から受け継がれた信条といったものではない。彼らも、主イエ
スが捕らえられた時には、主イエスよりも自分が大切で、イエスの仲間だろうと疑われた時には、「その人を知らない」と言わざ
るを得なかった。その弟子たちが、このような確信を持つことができたのは、復活の主に出会って、キリストの赦しをいただくこ
とが出来たからであった。
その後、ペトロとヨハネは、もう一度議会に呼び戻されて、イエスの名によって話したり、教えたりしないように(18)と脅し
を受けたが、彼らは大胆にも、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(19)と
言っている。二人の言葉を聞いた議員たちは、どうすることも出来ず、二人を脅かしてから釈放せざるを得なかった。民衆を恐れ
て、どう対処してよいか分からなかったからだ。
キリスト者の大胆とは、イエス・キリストの救いの御業に基づくものであり、聖霊に満たされることによってこそ得られるもの
である。
(7月28日、8月4日の礼拝説教より)