「主(神)は(モーセに)こう仰せになりました。……『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしはエジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聴いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」(使徒言行録7:33~35)
応援教師 山本 清
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2024年12月
初代教会において奉仕者として選ばれたステファノが、知識と霊によって語るので、反感を買い、最高法院に訴えられたが、
そこで彼が語った説教の一部が上記である。
モーセは、ミディアンの地で羊の群れを飼っていたとき、柴の燃える炎の中で神と出会い、上記のように、「わたしは、エジ
プトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたを
エジプトに遣わす」との召命を受けました。ステファノがこの召命のことを語るのは、モーセをイエス・キリストの「ひな型」
と見ているからである。モーセは、イスラエルの人々から受け入れられませんでした。それと同じように、イスラエルの人々が
受け入れずに十字架につけたイエス・キリストを、神は、あなたがたの指導者・解放者とされた、というのが、ステファノの言
いたいことであります。
私たちは、この世で出会う様々の困難の中で、神は私たちの苦しみを見ておられないのではないか、との思いになることがあ
る。そんな私たちに対して、ステファノが告げるメッセージは、<神は決して私たちを見過しにされず、嘆きを聞き逃しておら
れるのでもなく、最も良い時に、最も良い方法で私たちを救ってくださる>ということです。
モーセを遣わし、イエス・キリストを遣わしてくださった神は、今も、私たちを救うために、聖霊において働きかけてくださ
るお方であります。
間もなく、待降節を経て降誕節(クリスマス)を迎えます。喜ばしい出来事を記念する日として迎えたいと思います。
しかし、イエス・キリストの誕生は十字架への道の始まりでした。本当の喜びは、復活節(イースター)を待たねばなりません。
モーセは、そんなキリストによる救いの道を指し示しています。
(11月17日の礼拝説教より)