「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。』」(5節)
列王記上17章8~16節、ルカによる福音書11章5~8節
列王記上17章の背景には、バアル宗教という偶像礼拝があります。「男の神であるバアルが天から降り、女の神であるアシェラが
それを大地で受け止める。すると、豊穣が生じる」。偶像礼拝の根っこには、豊かさと成長への飽くなき欲望があります。欲望の実現の
ためには、[山の文化]と[海の文化]という異質なもの同士が結びつき、「数年の間、露も降りず、雨も降らない」(1節)といった
渇きが生じることもよくあることです。
そのような時こそ、自らを犠牲とする信仰者が必要となります。エリヤは、必死になって人々に語りかけました。「もう一度、神様の
御言葉に耳を傾けてみよう。人と人の交わりを信じてみよう」。そのエリアが立たされたところは、バアル宗教の総本山、フェニキアの
女王イゼベルの故郷、「シドンのサレプタ」(8節)でした。信仰の問題を突き詰めていく時、人は問題の奥深くまで進んで行くことと
なるのです。
エリアは、町の入り口で一人のやもめに出会いました。その時、言いました。「水を…少々…パンを一切れ…ください」(10~11節)。
しかし、やもめが発した言葉はつれないものでした。「私には夫がいない。人にあげるパンはおろか、自分たちが食べるパンもない。
あなたとの関係もない」。
ルカ福音書11章でも、同じテーマが取り扱われています。誰かに差し出すパンがないということは、普段であれば、あまり気になら
ないかもしれません。しかし、切羽詰まった状況においては、そうではありません。例えば、ロシアとの戦争によって傷つき倒れている
ウクライナの人たちに対して、「差し出せるものが何もない」ということで本当によいのかと考えさせられます。せめて、彼らが「世を
信じること、希望を持つこと、愛すること」といった三つのパンを失わないで済むよう、何かができればと思います。
どんな人も、「ない。ない」と連呼します。しかし、「あなたの神、主は生きておられ(る)」(12節)との信仰は失われていないはず
です。壺の中の一握りの粉。瓶の中のわずかな油。それを自分のために使えば、それまでです。しかし、それを誰かのために用いるならば
どうでしょうか。「壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない」(14節)ということが起こるはずなのです。
事実、神様は、神様の子供と呼ばれるに値しない私たち罪人のために、神様の独り子である主イエス・キリストをパンとして与え、私たち
を生かしてやまない聖霊なる神様を油として与えてくださいました。この事実に立つ時、命は躍動し始めます。