「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、
自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 (3節)
主イエスは、エルサレムに向う途中ベタニアに来られました。ベタニアは主がラザロを甦らせた町です。そこにはイエスの晩餐が用意されて
いました。ラザロと主に癒された者たちが、主への感謝を表すためだったのでしょう。ラザロのお姉さんマルタは給仕に一生懸命でした。一方、
妹のマリアは、主の御許で、御言葉に聞き入っていました。そして主イエスのただならぬ何事かを感じ取り、何とかして主イエスを慰めたいと
心を砕きました。そこで彼女は、高価なナルドの香油を主イエスに注いだのです。ナルドの香油はインドの植物から取った非常に高価なもので、
石膏の壷に密封されていました。「Ⅰリトラ」とは327g程で、香油としては驚くほど多い量です。
この時代、晩餐の主賓に油を注ぐのは、ごく普通のことでした。問題は、その香油を注ぐ方法です。普通は「わたしの頭に香油を注ぎ」(詩編
23編5節、等) と聖書にあるように、頭に数滴たらします。しかし、ここでは、主イエスの足もとに327gの全てを注いで、しかも、自分の髪の毛で
その足を拭っています。特に女が髪を解くと言うことは、極端に卑下していることを表わします。マリアのこの行為は、彼女の謙遜さと、純粋な
信仰を表わすものでした。その時、香油の薫りは、家の中一杯に拡がりました。
さて、このマリアとは全く対照的なのがイスカリオテのユダです。彼は「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかった
のか。」(5節)と非難しました。三百デナリオンとは、当時の人々の年収の額で、今のお金に換算しますと約300万円程です。彼は貧しい人のことを
考えていたのではありません。ユダは人の心を見ないで300万円と言うお金の額に目を奪われています。人の心よりも、お金や物を中心に生きて
いるのです。ユダは預かった財布の中味をごまかしているような者でした。彼は私欲を満たそうとする誘惑に勝てなかったのです。そのことは彼の
滅亡の第一歩でもありました。
主イエスは、マリアの行為を「わたしの葬りの日のため」(7節) だと説明されました。確かに主イエスは、それから数日後に過越の子羊として、
私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、葬られました。十字架上で裂かれた肉と流された血の値を知る者のみが、心から主に感謝し、
最善のものを全て捧げて、このように主イエスの葬りの備えを為すことが出来たのです。マリアの心は、主イエスと父なる神への愛と感謝の思いで
一杯でした。その処にこそ、主に捧げられた香油の芳しい愛の薫りが満ち溢れます。