「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって
語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
今日の聖句の、文章全体の構成を見ますと、原文ギリシャ語では、三つの現在分詞、現在進行形の言葉から成っています。一つは
「互いに語り合いつつ」、二つ目は「心から歌いつつ」、三つめは「讃美しつつ」であります。そしてこの三つのことは、神の言葉
の解き明かしに聞き、祈りを捧げ、この生身の体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」 (ローマ12章1節) る礼拝にお
いて初めて生じるものです。礼拝を抜きにしては、互いに語り合い、心から歌い、讃美すると言うことはできません。
「讃美しつつ」と言うことは、自分を小さくして神様を大きくすると言うことです。近代音楽は「月光」とか「運命」と言った題名で
お分かりのように、人間の感覚や人間の心の思いを表現しようとしています。しかし礼拝を場とし、礼拝を前提とする讃美は、どこまでも
人間の気持ちや人間の心そのものを中心にするのでなく、そのような自分、そのような人間の思いが小さくなって、父なる神、真の命の
主なる神が大きくなることです。
次に「歌いつつ」ということですが、これはただ声を出して歌うと言うことではなく、人間と自然を越えた永遠なる神に向かって歌うと
言う意味です。一般の合唱団のように会衆に向かって歌うのではありません。また聞いている人の評価を意識して歌うのでもありません。
どこまでもこの世の全てを越えた永遠なる神に向かって歌います。またその讃美を聞く人も、その声に導かれて、共にその心が神に向け
られて行くことです。これが礼拝で歌われる讃美の歌なのです。
最後に「互いに語り合いつつ」と言うことですが、これは交わりを意味します。天に向かって自分を小さくし、神を大きくして、神を
ほめたたえる歌が共に歌われるところに、人間同士の横のつながり、真の心の触れ合い、交わりが生まれて来ます。
木の枝は、幹につながっていてこそ、互いに葉を茂らせて調和を保ち、美しい全体の姿を映し出します。どのような人間の集まりでも、
共に一つの神をほめたたえるところに、まさにそのところに、喜ばしい交わりが生まれます。キリストは言われました。「わたしはぶどう
の木、あなた方はその枝である。」(ヨハネ福音書15章5節) と。
コロナ禍が収束して、心からなる讃美の歌を共に歌うことができるよう祈るものです。