紀元前587年、神の都エルサレムはバビロンの軍隊に包囲され陥落します。神殿は破壊されエルサレムは廃墟と化し、
イスラエルの民はその瓦礫の中で捕らわれの身となってバビロンに連れ去られ祖国を失います。これがバビロンの捕囚です。
暗い希望のない屈辱的な生活が50年近く続いたその時に、無名の一預言者が高鳴る胸の鼓動をもって「しかし、今や」と叫び、
新しい時、捕囚からの解放の時を告げました。暗黒に閉ざされた民が光を見たのです。この輝きに溢れる「転機」は、私たちの
人生にも起こります。
それには先ず、自分が今、何のために、何を一番大切に生きているのかを考えなくてはなりません。私たちの人生は只一度限りで、
やり直しが効きません。ウッカリしているとドンドン時間が過ぎて、知らない間に年を取り、気が付くともう終わりになっています。
もし、あなたの生きる目的が、単に人間社会の競争に打ち勝つことであり、自分の名誉や欲望のためなら、一時も心の休まる暇が
ありません。また、ただ安全につつがなく生きて行くだけなら、その人生には何の喜びも感動もなく、ただ生きて来ただけと言う
ことで終わります。然し今、神は預言者を通して、滅び行く、絶望の中にある民に「恐れるな」と語り、逆境の只中で苦しんでいる
個人個人の心に、人間の英知の及ばない、どんな愛情も届かない、孤独で空しい死の淵にまで深く入り込んで来て「あなたの名を
呼んだ」と、あなたの名前を呼んでおられるのです。そして「わたしはあなたをあがなった」と言います。
贖うとは、奴隷として売られていた人を、身代金を払って買い戻し自由にすることです。つまり、私たちは何かの奴隷になって
いて自由が無いのです。お金の奴隷、名誉や肩書の奴隷、何よりも自分自身の自我の奴隷になっています。あたかも自分が神のような
権威者であるかの様に錯覚して自分を満足させ、自分に従い、自意識の虜になっています。移り行くものに従い、命を失っている、
このような者を、神は、キリストの十字架と言う莫大な身代金を払って贖い出し、私たちを自由にして下さったのです。そして
「あなたはわたしのものだ」と、私たちを永遠なる神の命に生きる者として下さいました。この神の呼びかけに応えて、自分が虚しい
ものであり、何かの奴隷になっていたことに気付くなら、その時点で、神は私たちの考えられない驚くべき慈しみと愛をもって私たちの
救い主、贖い主となられるのであります。その時、私たちは、あらゆる束縛から自由になり、神の栄光に生きる真の喜びを知るのです。