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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2018年3月
 このたとえ話は、主イエスがなさったその直前の、「見失った羊の譬え」や、「なくした銀貨の譬え」と同様に、特別に理解が

困難なところと言うのは、私たちにとって、ほとんどなく、分かりやすいものです。何が、分かるのか、それは、一言で言うと、

①私たち人間という存在は、神様の前から失われた存在(罪人)であること、そして、②その失われた人間存在を、父なる神様は

どれほど切に、ご自分のところに帰ってくることを願っておられるか(神の愛と憐みがいかほど大きなものであるか)、ということ、

そして、③父のもとに帰り、悔い改めた罪人をどれほど、神様は喜んでくださるか(どれほど大きな喜びの祝宴が催されるか)と

いうこと(神様の愛の深さと心の広さ)であります。正に、このたとえ話は、聖書の神髄を、1頁に凝縮して、私たちに示している

のです。つまり、このたとえ話が、自分に語り掛けてくださっているものとして理解でき、信じられる人は、聖書全体を、十分に

理解し、信じているといってもよいのです。

本日の聖書の個所から、直ちに分かることは、二人の息子は、私たち人間を表し、父親と言うのは、神様ご自身を表していると

いうことです。この弟息子は、これほど急ぐ必要もないのに、早く財産分与をしてほしいと父親に要求します。自分で好きなように

生きたい、だれからも拘束されたくない、自分には「自由」がある、というのです。そして、父親もまた、驚くほど寛容でありま

して、まるで、息子の言うがままに、財産を生前分与してやります。当時は、もちろん、生前分与などは、許されていない社会で

あったのに、父親はそれを許します。案の定、弟息子は、自分の財産を受け取るや否や、外国に旅立ち、そこで、贅沢三昧を尽くし、

財産を無駄使いしてしまいます。財産のあるときは、ちやほや寄って来た友人も、財産がなくなれば手のひら返しで、潮が引くよう

にいなくなり、しかも、この地方の飢饉と相まって、弟息子は食べるものにも窮し始めます。彼は、かろうじて、ユダヤ人が最も

軽蔑していた「豚を飼うという仕事」に付き、命をつながざるを得なかったのです。ここで言う、「イナゴマメ」とは、主に豚の

飼料にするものですが、貧しい人たちも食べていました。ぜいたくな暮らしに慣れていた彼は、貧しい人たちと同じ生活を続ける

ことは耐えられなかったのです。そのような悲惨な暮らしを始めてやっと、彼は「自分が間違っていた」と正気に返ったのです。

そして、「自分はここで飢え死にしそうだ。だから、父の家に戻って、父に心から謝り、息子としてではなく、父の家の雇人の一人

にしてもらおう」と思ったのです。彼は、「やっとまともな判断ができる」ようになったのです。彼は、初めて自己の罪に気付いた

のです。これは、正にアダムとエバの堕罪物語を彷彿とさせるものです。アダムは、蛇に騙されたのもありますが、エデンの楽園の

主人である「神様の戒め」より、「自分の自由」を優先させたのです。この弟息子もまさにそうであります。『自分には、父の

財産をもらう権利があり、しかも、それを自由に使う権利もある』と。父は、自分が死ねば、自然に自分の財産を息子たちに譲った

でしょう。けれども、弟息子のように、働きもせず、気ままにお金を使っていけば、いつかは無一文になり、生きていけなくなること

も、また明らかなことです。彼は、「死にそうになって初めて」自分の危機に気づいたのです。

ここでは、外国に行き、行方知れずになっている息子のことを、いかに父親が、普段から、心に悩んでいたかと言うことを示して

います。ですから、遠くに息子を見た時に、「あれは、いなくなった息子だ」と、すぐに分かり、今までのこだわりをすべて水に流し

て、首を抱き、接吻して息子を赦し、家に招き入れたのです。息子は、その時、父親に対して、生涯初めての『赦し』を乞います。

息子は、初めて「父親に対して、悔い改めた」のです。父親は、息子に対して、『分かった、赦そう』と言うよりも前に、『急いで

いちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て

屠りなさい。食べて祝おう。』と言ったのです。父親の、『愚か』とまで言えるくらいの寛大さであります。「指輪」と言うのは、

「権威の象徴」であり、「履物」をはかせるということは、「彼が、この家の奴隷ではなく、父親の大切な息子であるということの

しるし」です。父親は、失踪していた弟息子に対して、最大限の歓待を示します。なぜか。それは、『死んでいた息子が生き返り』、

『いなくなっていたのに見つかったから』です。息子は、いうまでもなく、父なる神の前で、『すべての人間そのもの』を示しています。

私達が罪に堕ちるということは、私達が神様の前から失われ、一匹の羊のように、また1枚の銀貨のように、行方知れずになることを

意味します。それは、同時に、『人間の死』と言うものを意味します。創世記にあるように、人は、神様がご自分の命の息を、鼻に

吹き込まれて、初めて生きるものになったと言われているように(創世記2:7)。人は、神様から離れて生きることはできないことを

示しています。それなのに、愚かな弟息子は、父親のもとを離れてこそ、自由に生きることができると思ったのです。けれども、今彼は

やっとその誤りに気が付き、そのことを父親に告白しました。父親は、何よりもそのことを喜び、『この息子は、死んでいたのに生き

返り、居なくなっていたのに、見つかったのだ』と言います。この一連の出来事(息子の罪の告白、罪の悔い改め、そして父の赦しと、

喜びの祝宴)は、私たちに、『罪の悔い改め、罪の赦しの求め(洗礼)、そして命の復活、神の国での祝宴』を示しています。

 兄息子は、正に弟息子と真逆の行動をとります。しかも自分として、自分の行動や感情が正しいと信じて、父親に反抗し、“たてつく”

のです。人間的に言えば、兄の気持ちはもっともであり、非難されるべきものではありません。「子山羊一匹すらくれなかったでは

ありませんか」と言う兄の悲痛な抗議には、心打たれるものがあります。兄は、心の中では、泣き叫んでいるのではないでしょうか。

兄の抗議には、『痛切な響き』があります。けれども、このような兄の叫びにも似た抗議とは裏腹に、父親は、それをなだめ、『子よ、

お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』
と理と情を説きます。それは、まず、『子よ』と言う呼び

かけから始まります。『お前は、私の子なのだ』、しかも、『お前はいつも私と一緒にいる。』この父親こそ、≪インマヌエルの神≫

なのであります。『私が、お前と一緒にいる限り、何も心配することや、不満に思うことはない』、なぜなら、『私のものは、全部

お前のものだ。いずれ、すべての財産を相続する時が来る』と反抗する兄に向って、言います。父は『時が来るまで待ちなさい』と、

兄を諭しているのです。また、「ブドウ園の労働者の譬え」のところで、夕方の5時になってやっと労働者として雇われた者に対する、

まともに朝から働いた者の不満・不服に対して、ブドウ園の主人が、『友よ、私はあなたに不当なことはしていない。あなたは私と

1デナリオンの契約をしたではないか。私は、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを、自分の

したいようにしてはいけないか。
それとも、私の気前良さを妬むのか。』と言ったように(マタイ20:1~)、正に兄息子は、父親の

気前の良さ、寛大さを『妬んで』いるのです。父親は、そしては、罪人である私たちに対して、考えられないほどに寛大であり、

気前良いのです。これこそが、≪神の愛≫であり、≪神の憐み≫なのです。普通の神経や常識の人には、とうてい理解しがたいこと

です。私たちにも理解しがたいこと、信じがたいことです。けれども、神様は、この私の意思を≪理解せよ≫、そして≪信ぜよ≫

“命じて”おられるのです。そして、神様は、どちらの息子に対しても、愛と慈しみを豊かに注いでおられるのです。
















                         

 






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     「放蕩息子のたとえ」     ルカによる福音書 15章11~32節