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月報巻頭言集
 泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2018年1月
 2節では≪私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。≫と説かれています。けれども、

私たちは、直ちにこの忠告を、「その通りだ」と肯定はできないのではないでしょうか。「『試練』などは、なるべく来ない

ほうが良い。来るとしても出来るだけ小さく、容易に解決できる程度の試練がいい」と思うのではないでしょうか?もっともな

願いであります。山中鹿之助は、「我に百難、辛苦を与えたまえ」と祈ったそうですが、本当に試練に出会った人は、決して

そのようには祈らないでしょう。なぜなら、『本当に厳しい試練』とは、究極的には『死』を意味するからです。山中鹿之助は

『死んでもいいから試練に会いたい』と思ったのでしょうか?おそらく、そうではないでしょう。


 『試練』とは、他の人から来ることもあれば、自分の罪のゆえに、自分自身が招くこともあり、ヨブのように、サタンが神様の

了解を得て、ヨブを試練に合わせる場合もあります。また自然災害や戦争や飢饉などように、だれをも襲う可能性のある試練も

あります。ある意味では「人間の歴史は、試練の歴史であり、試練にどのように対応するかの歴史」でもありました。人間に

対する、最も普遍的な、そして身近な『試練』は、「病気、老化、貧困、さまざまな争いごと」でありましょう。「信仰」にも、

「試練」はあります。それは、「せっかく与えられていた、信仰がなくなってしまう、或いは、弱まっていく」という試練であり

ます。

 「試練」はこのように、人生における「きわめて危うい状態」であるのに、なぜ、ヤコブは、≪試練に出会うときは、この上ない

喜びと思いなさい≫
というのでしょうか。それは、次の3~4節にありますように、≪信仰が試されることで、忍耐が生じると、

あなた方は知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で、申し分なく、何一つ欠けたところのない人になり

ます。≫
と言われているからであります。先ほど申し上げた、さまざまの『試練』は、私ども信仰者にとりましては、結局すべて

『信仰の試練』になるのです。また、そのように受け取らなければ、根本的には、何一つ解決されないからです。例えば、「老いの

問題」を取り上げてみましょう。「老い」は人生で決して避けられない問題です。「老い」は人生で「長寿」を与えられ、祝福され

た者のみが与えられる、『試練』であります。ある意味で、これは大変矛盾した悩みであり、また、ぜいたくな悩みと言えるでしょう。

しかし、これは、その人にとっては極めて深刻な悩みなのです。現代の世界が目指しています「長寿」や、「長い健康寿命」が、

矛盾に満ちていることが分かります。最初の「不老長寿」でありますが、本当に世界の人々が「不老長寿」になり、究極的に、地上

で「永遠の生命」が得られるようになると(現代はその入り口に来ています)、いずれ地球は人であふれるようになり、食糧問題や

水の問題、空気の問題などが次々と発生し、地球に人が住めなくなります。地球の資源・物質・エネルギーが有限であるからです。

結局、地球上は健康な「長寿老人」ばかりとなり、「赤ちゃん」は必要がなくなります。恐ろしい時代となります。ですから、この

地球上に住むことをあきらめて、他の惑星に移住することを今、真剣に考えている人が出てきています。勿論、他の惑星に移住する

にも100年、1000年という長期間の宇宙旅行をしなければなりませんから、決して容易なことではなく、生命をかけた事業となります。

宇宙の果てにまで行ったとしても結局同じことになります。つまり、このように考えてくると、人間は一見、『永遠の生命』を求め

てはいますが、いずれもいつかは破綻することが目に見えています。秦の始皇帝は不老長寿を求めて、水銀にその霊力があると思い、

水銀中毒で50歳で死んだともいわれています。ですから、私たちが、本当に求めているのは、「地球上の生命を永遠化することでは

ない
」ということが、明らかです。私たちが求めているのは、適切な有限の人生を充実して送り、最終的には『本当の永遠の命』を

得て、『神様と共に、生き続けること』なのです。このことは、信仰抜きでは考えられないことなのです。「創造者たる神様の存在

抜きに、いくら被造物である人間が物事を考えてもいずれは破綻する」ということになるのです。

創世記2章7節には、私たち被造物である人間の命は、神様が与えてくださり、また神様がいわばコントロールしておられることを

示しています。大切なことは、私たちまたは、私たちの兄弟が、死の間際に至っても、神様に≪祈る≫ことだけはできるし、勧めら

れているということです。どのように祈るのか。それは、「あなたの御約束通りに、この僕を、あなたの国に招き、入れてください。」

という祈りであります。そのことは、主イエス御自ら、私たちに保証してくださっていることなのです。「あなたは、今日、私と一緒

に楽園にいる」と(ルカ福音書23:42)。私たちが招かれている、「神の国」がどのようなものであるのかは、黙示録22章1節以下から

知ることができます。そこでは、≪天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、

都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の

民の病を治す
もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。

彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなくともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼ら

は世々限りなく統治するからである。≫

                         

 















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   「老いと信仰の試練    ヤコブの手紙 1章2~8節