月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2015年5月

私たちの信仰の先達として、最大の伝道者であるパウロは、この聖書の個所で、「キリスト者に与えられている自由と行動の規範

について、語っています。彼は、23節で、《「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。

「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが私たちを造り上げるのではない。》と言っています。「すべてのことが

許されている。」と二回、彼は繰返しています。ここでこの文を括弧書きにしていますのは、彼が、同じコリント書の6章12節でも、

説いているからです。彼は、強調したいこと、多くの人が誤り易い事柄については、何度でも、繰り返しますし、また手を変えて、

品を変えて、説明します。私達はそこに、彼の熱意と執念を見ます。そうなのです。私たちは本当に愚かですから、何度でも

説明される必要があるのです。・・・私たちキリスト者は、主イエスキリストに出会い、全く罪のなかった彼が、苦難の道を歩み、

私たちの罪を担って十字架に掛って下さり、復活させられて、天にお昇りになり、聖霊をお送りになり、再び今、私達と共に、

いて下さっていることを知り、このことを信じ、喜んでいます。ですから、私たちには、「本当の自由」が、与えられているのです。

けれども、この自由は、自分がしたいことを勝手気ままにして良い自由ではなく、あるいは、現実の生活からの逃避であったり、

解脱への自由でもなく、他人を苦しめても良いというような自由でもありません。私たちがキリストを通して与えられた尊い自由は、

「キリストの贖い」によるものですから、私達もこの自由をキリストと同じ目的に使用しなければならないのです。言わば、

用途が限定された自由なのです。この自由は、「他の兄弟姉妹の救い」に焦点を当てた自由でなければなりません。つまり、

私たちは、自分が救われたという喜びだけで満足していてはいけないのです。まだ救われていない、世界中の兄弟姉妹のために、

生き、また行動しなければならないのです。「自分は、救われているから、礼拝だけに出席していればよい」とか、「自分には

多くの楽しみがあるから、それらも満足させながら、礼拝にも出席すればよい」のでは、ないのです(ながら礼拝)。

《すべてのことが「益」になるわけではない。》とは、《すべてのことが人の「救い」に結び付くわけではない。》ということです。

パウロがここで言っている「益」とは「救い」ということです。その内容は、「あなたはキリストに出会って救われたのだから、今度は、

その残りの生涯を他の兄弟姉妹の救いのために捧げなさい。」ということなのです。そのためには、何があっても礼拝に出席しようとする

熱意が求められています。それがキリスト者の信仰です。今、日本のキリスト者は、人口の約1%未満(100万人程度)で、しかも年々

キリスト者人口が減少しています。お隣の韓国では約30%(1500万人程度)、フィリッピンでは約90%、クリスチャンが迫害を受けていると

言われる中国でも、約5~10%(5000万人~1億人)と言われています。日本のこの状況には、色々と背景がありますが、いずれにしても

「危機的な状況」です。

31節では、《何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい》と言われています。「神の栄光」とは、「神の臨在」

いうことであり、私たちは、私たちのために、苦しまれ、復活させられた主イエス・キリストによって、「神の御臨在」を知るのです。

そしてそのことは、『礼拝』においてのみ起こる出来事なのです。
















 

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