今月の聖書のこの個所には、二つの主要テーマがあります。
一つは、私たち被造物は神様によって命の思い煩いから解放されているのだということを、前半の烏と野の花の譬えによって
示されています。二つ目は、ルカ独自の記事(32節)に示されているように、教会に属するキリスト者の数が少ないことによって
生じる私たちの悩みに対する、神様からの応答であります。
最初の譬え話 (22~31節) は、私たちの財産というもの (神様から頂いた大切なもの) に却って縛り付けられている私たちを、
その拘束から解き放つ、神様からの訪れを告げているのです。人は思い煩いの中にある時、神様を仰ぎ見ることを止め、
不安におののきながらも、生存に必要なものを手に入れようとします。けれども、私たちは、最初の譬え話の中の烏や野の花の
ように、神様は私たちの人生が始まったときから、恵みを与えて下さっていることを知っているのです。
神様は、この事実の中に、すべての被造物を保っていて下さり、必要な手段をも与えて下さっているということを示しています。
神様は、被造物自身に代わって生活の配慮、生存するための配慮を引き受けて下さっているのです。このことは、身の回りの
烏や野の花だけではなくて、実に地球全体がそうなのです。地球の約 39 億年の歴史を考えても、驚くほど巧妙にまた精緻に、
現在に至るまで人間を含む地球の生命全体を、保ち発展させられてきたかということが、特にこの数 10 年の間に明確になって
来たのです。神様がこのように実に精妙に、自然の秩序、生命の秩序を保っておられるのに、私たちが「なおも思い煩うこと」を、
主イエスは神の恵みを知らない、「異邦人の生き方」であると言われるのです。異邦人は神様を知らない、だから、
被造物のために思い計らっていて下さる神様を知らない。思い計らうことまた、思い煩うことは神様の業なのです。私たちが、
神様の深い配慮・計画を忘れて、なおも思い煩いの中にあるならば、それは、私たちが、神様の業をしているということになります。
つまり、私たちが神になっているということです。それは不遜・罪以外の何物でもありません。
「神様を神様とし、人間を人間としなさい」ということであります。このことは、主イエスが地上にお出でになったとき以前から、
今日に至るまで全く変わっておりません。ですから、人類に対してまた、個人に対しても、現在も「あらゆる悲惨と混乱と無秩序」が
支配しているのです。だから、主イエスは、私たちに「まず、神の国を求めなさい」と言われます。「神の支配を求めなさい」と
いうことであります。つまり「あなた達の思いや望や願いのすべてを、神様に委ねなさい」と言われているのです。私たちは、
「何を願うべきか」ということさえ、神様に教えて戴かないと分からないのです。これが「主の祈り」の意味でもあります。
「小さな群れよ、恐れるな。」ルカによる福音書 12 章 22~34 節