月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2015年2月

 旧約聖書の出エジプト記 20 章にある十戒の第五戒では、「あなたの父母を敬え。・・・」と教えられています。

この戒めの根拠は色々と考えられますが、第一に、自分を生み出して下さった父母に対して、“地上における神の権威を代表

している存在として”、あなたの父母を敬いなさいということです。勿論、親子の関係はあらゆる面にわたっていますから、

父母に対する子の義務も色々な面を持ち、物質的な義務も当然、伴います。また、私達には当然、神様に対する義務もあります。

したがって私たちの所有物をささげると言うことも大切なこととなります。そこで、限られた所有物を父母に捧げるか、神様に

捧げるかという“深刻な問題”も生じて来ます。どちらも信仰の問題だからであります。簡単に割り切ることは困難です。

けれども、ファリサイ派の人々は、「父母よりも神様を優先させる」という割り切った判断をして、それを“彼らの言い伝え”

して、「父母に対して、何でもこれはコルバン(神様への捧げ物)です」と言えば、父母に対する子の物質的な義務が免除される

と考えて実行してきたのです。なお、コルバンとは、神様へのイスラエル人の大切な供え物でありました(レビ記 1 章 2~4 節)。

このように決めておけば、父母への義務も、なんらの心の痛みもなく、放棄できます。そのような状況のもとで主イエスは、

この言葉を仰ったのです。主イエスの言外の結論は、どちらが誠実な態度であるか、「神様への捧げ物を削ってでも、父母の

現実的な用に回す方が良い場合と父母に困窮してもらっても神様への捧げ物を優先するべき場合があり、事前には一律には

決められない。その都度悩みながら、祈って決めるべきだ。」と仰っているのです。であるのに、「あなた方ファリサイ派の

人々は、自分たちで単純に割り切るために作った“人の言い伝え”を墨守し、神の言葉(レビ記 1 章 2~4 節)を無にしている。

また同じようなことをたくさん行っている」と裁いておられるのです。人の言い伝えよりも、私たちが大切にしなければならない

のは、神の掟( “互いに愛し合いなさい”(ヨハネ福音書 13 章 34 節))なのです。

 大事なことは、このような過ちが、主イエスがおられた当時のユダヤ社会(ユダヤ教徒・旧約の民)だけのものではなく、

キリスト教徒も絶えず同じ過ちを犯しているということです。

例えば、16 世紀のヨーロッパで起こった宗教改革は、当時のカソリック教会の、神の言葉(聖書)には書かれていない、

自分たちの作った勝手な言い伝えを作り(例えば、“聖書の解釈権”はローマ教皇のみが持ち、一般の信者は聖書さえ読めない

状況であった)、何百年間、それを固守していたことに対する、強い批判で始まったわけです。そのようなことは宗教改革後 500 年も

経っていますから、現在のプロテスタントにおいても起こっているのです。ですから、日本キリスト教会の憲法・規則では、

「私たちの信仰の唯一の規範は、旧・新約 66 巻の聖書であり、信仰告白や、憲法・規則は教会の信仰を導く従属的規範である」と明記し、

人間の言い伝えに固執しないように定めているのです。要約すれば、この神の掟(“互いに愛し合いなさい”)だけからすべてを

判断しなさいということなのです。私たちの現在の教会生活でも同じです。私たちのすべての思いは、この神の掟から判断しなければ

なりません。

伝道所の規則・決め事であっても、委員会の決定したことであっても、“互いに愛し合いなさい”という主イエスのご命令に

応えているかということから、判断しなければならないのです。伝道所の規則や委員会の決定事項は貴重なものですが、それらが

優先するならば、人々は必ず伝道所から、離れます。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」

という主イエスのみ言葉から、私たちの信仰生活が始まり、また人々への伝道が始まるのです。














 

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