本月の聖書の個所は、わずか2節の短い個所ではありますが、私達と主イエスの関係、また私達と神様の関係そして、
私達と光と闇との関係を豊かに示してくださる聖書の恵みのテキストであります。この2節が私達に示す意味は、そんなに
難しいものではありません。35節では、「光である私・キリストはまだしばらく、あなたがた12人の弟子達の間にいる。
私という光をあなたがたが持っている間に、暗闇に追いつかれないように、歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに
行くのかを分からないからである。」36節では、「あなたがたがキリストという光を持っている間に、『キリストという光』
の子となるために、光である私を信じなさい。」と命じられているのです。これは、言うまでもなく、12人の弟子達に対する
ご命令であると同時に、現在の私達、21世紀の日本という、はるかにパレスティナより離れた、異教の国にいるクリスチャン
に対して、主イエス・キリスト御自ら、命じておられる愛の命令であります。35節では、2~3年という極めて短い宣教の期間に、
そのすべての業を成し遂げられて、私たちの贖いのために、十字架に掛り、死んで葬られ、復活して天に昇られた、主イエスが
12人の弟子達に送られた訣別の、かつ祝福の説教であります。35節で、「暗闇に追いつかれないように」と言われている、「追い
つく」という言葉の元来の意味は、「下へ取る」という意味であり、「取って押さえつける」または「襲う」といっても良いの
です。つまり、「この世の闇は、私達に追いつき、私たちを『襲い』、私たちをその配下に入れようとする」から、「あなた
がたが、光を持っている間に、光を掲げて、歩き続けなさい」と命じられているのです。この世の闇(私たちの罪)は、極めて
強いのです、知らぬ間に私たちに忍びよって私達を、強盗のように襲うのです。アダムの時の蛇です。「光のあるうちに」と
訳されている言葉は、原語では、「あなたが光を持っている間に」という意味です。「私たちは光であるイエス・キリストを
持っているのだ」と宣言されているのです。とても喜ばしいことですが、恐れ多い言葉でもあります。ですから、「私たちが
闇の中にいて強盗に襲われそうになっても、決して襲われることはない。いわば、イエスという強烈な懐中電灯を持っている
のだから、安心して歩み続けなさい。イエス・キリストを周りに照らしながら、自分の足元と周りの人達の足元を同時に照らし
ながら、歩め。歩み続けるのだ。」と言われているのです。何という慰めでありましょうか、また何という光栄でありましょうか。
同時に主イエスは、決して「留まってはならない」と言われているのです。私たちの信仰は、主イエスを持っているからと
安心して、留まっていませんか?「今は、忙しい年代だから、もう少し余裕のある年代になったら、教会に行こう」とか、
「今は何不自由なく恵まれた生活をしているから、特別に光がなくても生きていける」とか思っていませんか。『キリストの時』
は短いのです。また、『時』は失われる危険性が十分にあるのです。すべてに最適な時があるのです。信仰を獲得する『時』は、
人生の中で何回も回ってくるわけではありません。一回か、二回か多くても三回かもしれません。野球のように9回のチャンスが
巡ってくるのでは決してありません。「次に来たときに捕まえればよい」のではありません。次に来るかどうかすらも分かりません。
今日キリスト共にいたから、明日もそうであろうとは言えないのです。信仰を与えるか否かは神様の自己裁量権の中にあるのです
(マタイ福音書20:15~16)。信じなければ、信じて行動しなければ、神様の『時』は失われます。多くの譬えがワンチャンスで
あることを示しています(十人のおとめ(マタイ25:1~13)、宝が隠されている畑(同13:44~46)等)。
『留まる事は強盗に襲われる非常に危険な行為です。私たちは信仰から信仰へ、昨日から今日へ、今日から明日へ、そして
明日から明後日へ、常に歩き続ければならないのです。そこに父なる神の祝福があるのです。信仰とはそのようなものなのです。
安心して、そして怠らず、毎日、前進しましょう。主は私達に、このことを望んでおられます。
「あなたがたは、光を持っているうちに、歩みなさい」 ヨハネによる福音書12章35~36節