月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2015年1月

 エルサレムに主イエスと弟子たち一行が到着してから三日目の火曜日に、ベタニヤ近くで主が呪われたいちじくの木が、

根元から枯れているのを、一行は見ました。これは、エルサレム神殿に眞の神信仰が見られないことに対する、神の

裁きの“しるし”であると言われております。そのとき、主イエスは、「神を信じなさい」と弟子たちに言われました。

あらためて、私たちに対して、神への信仰が求められているのです。その信仰は、「少しも疑わない信仰」です。

ここで言われている「信仰」という言葉の原語は、同時に「信頼」とも訳すことができます。それは、たとえば子供の

親への信頼であり、信仰であり、親を頼りきり信じ切らなければ生きていけない子供の信仰です(マルコ10:13~16)。

それを主は称賛しておられるのです。また、逆に、「疑う信仰」に対しては、悪霊に取りつかれ、癲癇症状をたびたび起こす

子供の父親が、主イエスに向かって、「おできになるなら、私どもを憐れんで下さい」と懇願した時に、主は、「『できれば』

と言うか。信じるものには何でもできる。」と激しくお怒りになりました(マルコ9:14~)。

本文に戻りましょう。11章の24節では、主は、「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既にかなえられたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになる。」と仰っています。このような主の言葉を聞けば、中には、「何と調子のいいことばかりを、

主は言われる」と思われる方もいるかもしれません。けれどもこの主の言葉は、本当なのです。神は私達の一挙手一投足、

また、心の中の深い、人には話すことのできない思いまでも御存じなのです。人間はごまかされます。右の人に対する言葉と、

左の人に対する言葉を、180度変えていても当面は暴露されることはありません(それを偽善と言います)。けれども神様は

ごまかされるような方ではないのです。暴露されないのは、神様がしばらく猶予されているからです。

 ここで私たちに問われていることは何でしょうか、それは、私たちの「信仰」と「祈り」であります。

私たちは間もなく、私たちの会堂建設の是非を問う、定期総会を今月末に持とうとしています。そこには、いくつかの不安が

あります。その不安とは、会堂を建設しても、教勢が伸びるだろうか、また、若い人たちが礼拝に出て来てくれるであろうか、

また、将来若い牧師が派遣されるであろうか等、正に不安が一杯であります。けれども、大切なことは、伝道所が会堂を建設し、

またいつか教会に成長発展していくことを心から願っておられるのは、誰よりも、私たちを今までお導き下さった「神様御自身である」

と言うことです。12月14日の聖日礼拝の説教でお話しいたしましたように、私たちの神様は、インマヌエルの神であり、

今までも、今も、そして終わりの時に至るまで、常に私達と共にいてくださる神であります。また、「会堂建設の願い」は、

この地に、天に昨年、召されました坂井重憲兄弟と愛子姉妹のご家庭で、伝道を始めようと決断し、更に伝道所を開いて以来よりの、

私たちの長年の切なる願いでもあることを、神様はよくご存じであります。ですから、私たちは、安心してまた熱心な祈りを持って、

定期総会に臨みたいと願います。「あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。」のですから(申命記3:22)。




















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