本日の個所で、パウロは、「フィリピの教会の人々のことを思い出すごとに、いつも喜びを持って祈っている。
あなた方が最初の日から、今日まで、福音に従って歩んでいることを知っているから。」と言います。
つまり「私達が洗礼を受けた日から今日まで、イエス・キリストに従って歩んでいる」ことを彼は喜んでいるのです。
誰でも、洗礼を受けた日の礼拝と説教には特別な思いを持っています。その日が、自己の生涯の転回点になったからです。
けれども、もっと大切なことは、「その与えられた信仰、与えられた喜びを、正に今日まで、持ち続けてきたこと」です。
つまり、「その与えられた信仰、与えられた喜びを、正に今日まで、神様が保ち続けて下さったこと」です。
このことが私たちの人生における「最大の奇跡」なのです。思えば、信仰の危機は何度もあったでしょう。
弱い私たちが、「信仰」を持ち続けて来たことこそ、神様の何よりも生きておられる証拠ではないでしょうか。
私達とほとんど同時に洗礼を受けた方々でも、今は教会に足を運べない人も多いのです。
「あなたがたの中で、善い業を始められた方」とは「神様であり、主イエスであり、さらに言えば、聖霊」です。また、
「善い業」とは、「信仰」あるいは、「福音」と言えます。彼は、「私達の信仰を創造された方」は、「神様であって、私ではない」
と言っているのです。また「長い信仰生活を送って来ることができた」ということは神様の大きな祝福ですが、それを何か
「自分の功績のように」考える人がいます。それは大きな間違いです。私たちに信仰が与えられたのも、私たちが今日まで
信仰を保ち続けて来ることができたのも、「ただただ、神の憐れみによる」のです。そのことを私達は深く認識しなければ、
その人の信仰はいつか神様が、取り上げてしまわれます。「神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、頑なにしたいと
思う者を頑なにされる」からです(ロマ9:18)。
「キリスト・イエスの日までに」とは、「世の終わりの時・イエス・キリストの再臨の時までに」ということです。即ち、
歴史には終わりがあるということです。それは、総決算の時であります。私達現代人は、歴史には終わりがなく、
色々と問題があっても、このような人間の歴史が、無限に続くと思っている節があります。しかし、聖書はそのようなことは
全く言っておりません。始まりがあったということは終わりもあるのです。つまり、私たちの苦しみが意味もなく延々と続き、
清算されることもないというのではないと、言っているのです(黙示録)。また、この終末の時は、裁きのためだけに
あるのではありません。終末は完成の時でもありますから、私たちの労苦もそこで解かれるのです。ですから私達が今後も
神の言葉に従い続けるならば、私達にとって、終わりの日は喜びの日となります。
10節では、「理性的な理解力」と「心情的な愛」とが相まって、「本当に重要なことを見分けられるようになるのだ」、
つまり「何が本物であるかを見分けることができるようになる」と言っているのです。一般的には、何が本物であるかを
見分けることは、そんなに簡単なことではありません。18世紀前の有名な錬金術の話は皆さんもご存じでしょう。
何でも「人の話を鵜呑みにしてはいけない、自分でも可能な限り良く調べなさい」ということでもあります。
信仰や教会や神学の歴史は偽物との戦いの歴史でもあるのです。
さらに、10節後半と11節では、私達は「キリストの日」つまり、「終末の日」に向かって生きているのだ、歩んでいるのだ」
ということを彼は、繰り返して言っています。「私達はあてどのない旅をしているのではなく、終着点を持っている、それは
神の国なのだ」と言っています。「清い者」とは「純粋な」という意味で、「本当に重要なことを見分けることによって、
『聖書の教えに忠実な信仰』を持っている者」ということになります。
「本当に重要なことを見分ける」・フィリピの信徒への手紙 1章3節~11節