月報巻頭言集
泉北伝道所 牧師 安田 修
月報巻頭言
泉北伝道所 月報 2014年11月

 この聖書の個所は、いわゆるイエスの訣別説教(告別説教、13章31節~16章)の一部です。15章11節で、「これらのこと」とは、

15章1~10節で主イエスが話された「私はまことのぶどうの木である」という譬え話のことであり、この譬え話をあなた方に話したのは、

「私の喜びがあなたがたの内に溢れ、あなた方の喜びが満たされるためである」と、仰っています。この喜びは、聖書の別の個所では、

結婚式の喜びに譬えられています。私達は、結婚式に出席しますと、本当に不思議な喜びに満たされます。それは、ひと組の新しい

夫婦の誕生という出来事が、神によって定められた秩序(創1:27)の内に、神によって創造の始めから祝福されたものであることを示し、

また、神とイスラエルとの関係がしばしば、婚姻に譬えられている(イザ62:5)からです。12節では、「私があなた方を愛したように、

互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」と私達は命じられていますが、この戒めは、13章34節や15章17節でも与えられています。

主は、繰り返し、繰返し「互いに愛し合う」ということを命じておられます。「この神の掟を守る人は、神の内にいつも留まり、

神のその人の内に留まってくださることは、神が与えて下さった“霊”によって分かります。(1ヨハ3:11)」とまで、仰っておられます。

つまり、私達が「互いに愛し合う」ということをしないならば、神がその人の内に留まることを止めておしまいになり、私達は神から離れ、

罪の状態に戻り、互いに憎み合い、争い合う関係になってしまい、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのか分からなくなってしまう、

と言っておられるのです。そしてこのことは私たちの経験を通しても、事実なのです。13節では、「友のために自分の命を捨てること、

これ以上に大きな愛はない」と主イエスは仰っておられますが、これは、単なる「人間愛」の素晴らしさを言っておられるのではなく、

御自分の今後の道行(十字架による死と復活とそれによる救い)を予告しておられるのです。つまり、主イエスは、「私はあなた方の罪の

贖いとなるために、自分の命を捨てるのだ」と約束しておられるのです。14節では、「わたしの命じることを行うならば、あなた方は

わたしの友である」と仰っています。神の子自ら、私達を神の友と呼んでくださるのです!何という慈しみと慰めに満ちた言葉でありましょうか。

これは正に破格の扱いであります。私達が神のために全財産を献金したからとか、或いは、人のために命を投げ出したから、というのではなく、

ただキリスト者として“互いに愛し合うならば”、「あなた方はわたしの友である」と宣告されるのであります。15~16節では、更に丁寧に、

「私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は、主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことを全て

あなたがたに知らせたからである。」確かに、僕は、ただ主人の言うとおり働くだけであり、主人の意図や希望を僕に話すことはないでしょう。

しかし友であれば異なります。まして主人の親友となれば、自分の生きる目的、喜びや、また悩みをも、親友には話すでしょう。余り人間的に

考え過ぎてはいけませんが、主イエスは、「父なる神から聞いたことを、聖霊を通して、すべたあなた方に知らせたのだ」と仰るのです。

逆に言えば、私達は、主イエスを通して、神が語られたことすべてを聞いているのです。これもまた何という驚きであり、驚くべき恵み

ありましょうか!

 16節からは、私達の選びと任命のことが語られています。私達が、神様に選ばれていることは聖霊の働きにより知っていることですが、

大切なことは、私達の中には、神様に選ばれる理由は全くないということです。

 私達が選ばれたのは、全くの恵み以外の何物でもない。私たちに何の功績もないのに、神は私達を選んでくださったということです。

このこともまさに、驚愕すべき事柄であります。神への感謝以外何も言えないのであります。そして最後に主は再び、

「互いに愛し合いなさい」という、父のご命令を私たちに告げられるのです。

 

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「あなたがたは、私の友」 ヨハネによる福音書 15章11~17節